ケータイ辞書JLogosロゴ 珠浦(中世)


長崎県>玉之浦町

 鎌倉期から見える地名。肥前国松浦郡のうち。玉浦とも書く。元応2年8月日の青方高光申状案に「玉浦」と見える(青方文書/史料纂集)。この申状は青方高継と青方高光が青方村の領有をめぐって相論した際,高光から出されたものである。この相論では,高継と高光の祖父能高の譲状の真偽をめぐり,その筆者である「阿闍梨長弁〈本名法明〉」の存在が問題となった。この申状で高光は長弁と法明は別人であると主張し,「長弁之子孫者,宇久之間島多之,法明子孫者,奈留・大値賀上下村并玉浦有」と述べている(同前)。下って,南北朝期の応安8年2月18日の日付がある大宝寺鐘銘には「肥前州於五島珠浦弥勅山大宝寺」とある(五島編年史)。同鐘には播州多賀郡西林寺(現兵庫県西脇市)の僧増信が寄進した旨が記されており,五島と瀬戸内海方面との交通の関係を考える上で重要な史料である。「海東諸国紀」によれば,丁亥年(応仁元年),朝鮮に雨花舎利を賀す使を遣わした「五島玉浦守源朝臣茂」の名が見える。「成宗康靖大王実録」甲午成宗5年(文明6年)12月1日条には,金羅道臨陂県守心寺の僧性竺が,その前年,同住僧32名と「日本国五島玉浦」へ漂着したことが記されている(李朝実録之部3/史料集成)。なお,地内玉之浦郷には玉之浦氏の居城であった玉之浦城の跡がある。宇久氏の一族玉之浦像によって築城されたというが,像の子納は永正14年,舅の宇久囲を辰の口城に攻め,平戸に奔らせた(城郭大系)。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7448674
最終更新日:2009-03-01




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