ケータイ辞書JLogosロゴ 千綿村(近世)


長崎県>東彼杵町

 江戸期〜明治22年の村名。彼杵郡のうち。大村藩領。地方【じかん】地区に属す。江戸初期は大村氏一族の大村純清の一円知行地であった。村高は,慶長17年検地による朱印高720石余(大村郷村記),「天保郷帳」791石余,文久2年内検高2,273石余,うち田高2,147石余・畠高126石余(同前),「旧高旧領」は江串村を含んで3,662石余。「大村郷村記」によれば,文久2年の村況は,東西2里25町・南北35町,広さ4,074町,うち田地149町余・畠地74町余(うち切畠23町余)・山林野3,849町余,内検高の内訳は蔵入地810石余・浮地286石余・請地25石余・新地464石余・私領648石余・樆梠闢1石余・楮苧闢3石余・水主地31石余,年貢上納は米2,305俵余・小麦76俵余・銀1貫366匁余,竈数609,うち大給8・医者1・小給23・鉄砲足軽扶持人36・間人8・左官1・本百姓115・間百姓123・浦百姓50・間鍛冶1・町人127・私領102・拝借家来3・請地家来8・永住者1・浮竈2,人数2,412(男1,243・女1,169),宗旨別人数は天台宗3・浄土宗416・法華宗1,406・真言宗10・真宗577,牛41・馬208,運上を納める諸職業の軒数は染屋株5・鍛冶株2・豆腐株5・綿弓株5・水車株2・糀場株5・揚酒屋株1・紙漉株2・酒造株2・質屋株1・小間物屋株1・蒟蒻屋株1・米小売株1・鬢附屋株1など,販売商品として茶・櫨・黒炭・鍛冶炭・生楮・柿・藁をあげ,村内には千綿浦があり,船数44,寺院は真宗安養寺・修験西宝院,神社は浜宮大明神・正観音・大宮権現・大神宮・山神・稲荷大明神・弁財天・水神・塩釜大明神・薬師如来・天満宮などがあると記される。大神宮はキリシタンから焼かれる以前は大社で,流鏑馬が行われ,社前に「流鏑馬走り止り石」が残る。明暦3年郡崩れという潜伏キリシタンの大量検挙事件では全体で投獄者608人・斬罪411人などにのぼったが,当村では斬罪5人・永牢5人であった。傾斜地が多い割合に水田化率は高いが,これは近世初頭に千綿川の赤瀬に井堰を築き,瀬戸・駄地・平似田各郷の標高70〜50m以下の傾斜地を水田化したことによる。4kmの水路で14町6反の灌漑面積をもっていた。用水路の分岐点は切間・水口で,水路は新井手または殿【とん】の井手ともいう。これは藩直営の新田開発で,瀬戸の大神宮付近に記念碑がある。これに対して溜池方式の新田開発は明暦元年に三井木場堤が築造されて行われた。千綿高原の波状地は粘土質で水漏れがなく,溜池の適地であった。この頃深沢儀太夫勝清が捕鯨業を営み巨万の富を築いたが,彼はこの富を産業開発に投入し,藩でも新田開発を積極的に推進しており,三井木場堤がその初めとなった。これによって13町歩の水田が開け,平似田郷・駄地郷の山手が開発された。元禄年間に深沢家2代儀太夫勝幸は,三井木場堤の近くに蕪・中・鹿丸(金丸とも書く)の3堤を築き,灌漑面積合計は25町となったが,これらは深沢一族の知行地となり,移住民を招来し,鹿丸村が成立した。のち中岳郷・蕪郷となる地である。鹿丸堤の上手幸十ノ久保は江戸末期に天草の住人江間剛次郎が開発した地で,安政2年に稲荷大明神が建立された。太ノ浦郷は千綿高原で佐賀藩領と境を接していた。大村藩では藤津口の最尖端に位置する琴平山に国境監視隊を置き,大給を頭とする一団がこの南麓に住み屯田した。明治20年この高原が大野原牧場になると,他村からの移住者も集まった。牧場は面積30町で,牛・馬・羊が放牧された。なお,明治44年から大野原が陸軍演習場に使用されたので,それ以前から琴平山麓から下手に移住し,幸十ノ久保の農民も移住した。遠目郷は遠目山・国見山麓の山村で,宝永5年遠目山の検地があり,その2年前に遠目の鎮守として正観音が勧請されている。この頃が集落の成立期とみることができる。なお,南隣の大村市萱瀬では元禄7年から12年にかけて大々的に木炭生産が開始されており,遠目の木炭生産もこれと軌を一にするものであろう。当村の開発の基点は千綿浦で,当初50戸の漁業家族と127軒の町人身分を含んだ町別当の支配下にあった。のち宿郷となった。宿場町の配置だが駅馬の制はない。彼杵宿から2kmしか隔たっていないので,小憩程度の機能を果たしたとみられる。地内には歌舞伎座と人形浄瑠璃座があって,各地を巡業していた。起源は未詳だが,人形浄瑠璃は3人操りで,寛延元年の台本が残る。歌舞伎とともに毎年6月15日鎮守水神宮の例祭(祇園祭)に奉納された(大村史話下巻)。農村部の支配組織は庄屋と横目役所で,ともに瀬戸郷にあった。庄屋屋敷は現東彼農協千綿支所の敷地で,蘇鉄と池が名残をとどめている。横目役所は片山にあり,横目を勤めた川原元治は悠々と号し,文化〜天保年間の頃俳諧で名を馳せた。豊後国日田の硯学広瀬淡窓と親交があり,天保13年淡窓が藩主純顕と千綿渓を訪れた時,悠々と旧交を温めた。この時,淡窓が残した「遊綿渓記」は千綿渓開発の先駆となり,川口の水神宮のある釜淵から始まり,竜頭泉淵を経,遠目の留りの淵まで48潭の名がつけられ,石に刻して立てられた。このうち竜頭泉淵が観光地として有名になった。明治4年大村県を経て,長崎県に所属。同11年東彼杵郡に属す。明治5年旧瀬戸郷庄屋屋敷地に千綿小学校,同7年里郷宮田に江串学校を創立した。同15年江串小学校は千綿小学校の分校となった。また千綿小学校は同19年千綿尋常小学校,分校は簡易江串小学校となった。「郡村誌」によれば,村の幅員は東西2里余・南北1里半許,地勢は「東方藤津郡ニ界スル所高ク,国見岳ヲ負ヒ,地勢亦従ツテ隆シ,漸ク西スルニ従ヒ陵夷トナリ海ニ迫ル所尤モ低平ナリ,村ノ北方千綿川貫流シ,中央ニ江串川ヲ帯ブト雖モ二川共ニ船楫ノ利ナク運輸太悪シ,唯ダ薪足リ炭余リアリ」,地味は「其色赤黒,其質中,稲・粱ニ適シ,茶樹ニ宜シ,水利便ニシテ旱ニ苦ムコトナシ,亦為メニ水損ノ患ヒナシ」とあり,村内は宿郷・八反田郷・太ノ浦郷・中岳郷・瀬戸郷・駄地郷・平似田郷・里郷・木場郷・一ツ石郷・武留路郷・蕪郷・遠目郷に分かれ,税地は田263町余・畑122町余・宅地2町余・山林43町余の合計431町余,改正反別は田438町余・畑307町余・宅地38町余・山林118町余・原野177町余などの合計1,080町余,地租は米1,285石余・大麦74石余・小麦33石余・金34円余,国税金は106円余,改正租金5,638円余,戸数は本籍914・社4(村社3・雑社1)・寺2の合計920,人口は男2,116・女1,959の合計4,075,牛63・馬360,船34(50石未満)。また,神社は村社の天満神社2・大神宮のほか水神社が鎮座,寺院は真宗竜法山安養寺・日蓮宗寿量山本地寺があり,学校は千綿小学校(明治9年の生徒数は男70・女10)・江串分校(同男71・女6)が設置され,古跡として武留路古城址,名勝として千綿渓があげられ,民業別戸数は農業690・商業66・工業46・漁業68,物産は米4,167石(うち移出高1,635石)・大麦950石・小麦77石・大豆120石・芋63万斤・素麺6万斤(同5万5,000斤)・酒76石・茶3万5,000斤(同3万2,000斤)・生蝋5,300斤(同5,000斤)・木炭8,500俵(同8,000俵)・煎海鼠80斤(同80斤)・雞1,200羽(同200羽)・鯵16万8,000尾(同8万尾)・鯛2,000尾(同1,000尾)・鱸1万5,000尾(同5,000尾),移出先として長崎・大村・西彼杵・西松浦などの各地と記されている。明治22年市制町村制施行による千綿村となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7448709
最終更新日:2009-03-01




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