ケータイ辞書JLogosロゴ 富江町(近代)


長崎県>富江町

 大正11年〜現在の南松浦郡の自治体名。大字は編成せず。村制時の行政区を継承。世帯数・人口は昭和10年2,640・1万1,928,同25年3,106・1万4,942,同45年2,951・1万38,同55年2,973・8,747。青壮年者の都市流出が著しい。町内循環道があり,1日7便のバス運行がある。その他福江〜富江間,富江〜岐宿間,富江―岳―山下間,富江―黒瀬―丸子間,富江〜丸子間にバスが運行される。富江の東方海上約7kmの黒島へは,所要時間30分の渡海船が運航される。農業は畑作中心で,米は自給できず,水利のよい所は水田化に努力したため階段状の水田が各所にある。畑作大豆は良質で,味噌・醤油の原料として小豆島などから買付けがあったが現在は自家用栽培程度である。麦は江戸期には年貢として広く栽培されたが,米・麦は年貢に納めた残りを銀にかえたため,江戸期には農民の主食は甘藷で,甘藷は元禄年間頃から栽培されたが,幕末に土取郷の田中庄三郎,鹿児島の田原伝吉が改良普及に成功し,明治期からは農業の主作物となり,アルコール原料として大型帆船で富江港から積出した。このイサバ船は農家の必需品を運んで来るため重宝がられた。澱粉工場が5か所にあり,豊富な甘藷で澱粉を製造していたが輸入ものにおされ衰退した。昭和初期まで農家は1日1食は甘藷で,長い間麦・甘藷栽培が中心だったが,昭和22年から収穫高のあがる葉煙草栽培を始め,栽培農家も200戸を超えた。養蚕は江戸期から行われてはいたが,明治30年頃から生糸輸出により脚光を浴び,大正初期には総反別の1割は桑園化した。昭和12年頃から衰えはじめ,戦時中には食糧増産で廃れたが,第2次大戦後には麦・甘藷に代わり生産性の高い養蚕が奨励された。畜産では江戸期から各農家1,2頭の牛を庭先で飼育していたが,昭和初期には1,200頭の成牛がおり,年間800頭の子牛が春秋2回の競市に出され農家の生計を助けた。従来の労働力としての飼育から肉用牛の多頭飼育に変わり,昭和60年には肉用牛1,261頭・乳牛17頭・豚7,700頭の生産がある。町営の自然放牧の富江牧場は昭和47年成牛110頭,子牛35頭で開始されたが,輸入牛肉におされたこともあって経営不振で同57年廃止となった。現在,葉煙草栽培・養蚕・畜産が農業の中心である。酒造は,江戸期に藩の事業として田之江の泉河で五島家富江清酒醸造所が始められ,焼酎も造られたが,大正14年に廃止された。五島氏は男女群島の漁場開発をなし,山口県の網主日高氏と鰤漁を協同経営した。鰹漁は富江湾を根拠地に高知・徳島・愛媛・宮崎からの船が出漁し,富江近海で操業した。鰹節の製造は帆船操業を行った明治末期までは漁場に近い女島・津多羅島などで行ったが,漁船が機械化されてからは製造も富江の和島・田之江崎,富江湾一帯に集まり,土佐式製法に変わった。湾の各所に30余の製造納屋があり,1日2万5,000匹の処理能力があり,鹿児島県山川とならんで日本の鰹節の本場となったが,やがて近海が不漁となり鰹節製造も衰退した。明治19年男女群島付近でサンゴが発見され,各地から集まった数百隻の採取船が富江港を根拠地として東シナ海に出漁した。サンゴの競市には海外からも参集した。サンゴ加工は明治38年高知県人鳥飼正巳を招いてサンゴ彫刻を始め,大正5年には講師を招き彫刻・図案の講習会を開いて奨励した。昭和9年採取船が台湾に移ったため,原木不足で加工場も減少した。しかし,同27年近海でサンゴ採取が再開され,協同組合が設立されて加工場も増加し,現在は従業員50人で品質向上に工夫をこらし特産品として宣伝に努めている(富江町郷土誌)。また,富江港を基地とした近海漁業は,引縄釣漁・近海鮪延縄漁業・定置網漁を主とし,年10億円の漁獲高をあげる。富江港を利用する漁船数はのべ5万隻で,5t未満の小型漁船が多い。特産品としてサンゴ加工,水産物加工品,特にスルメ・カラスミ・鰹節・鰹の塩干・カマボコなどがある。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7448833
最終更新日:2009-03-01




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