ケータイ辞書JLogosロゴ 八町分村(近世)


長崎県>飯盛町

江戸期〜明治初年の村名肥前国高来【たかき】郡のうち八丁分村とも書き,単に八町(丁)分と呼ばれることも多い江ノ浦川流域に位置する江ノ浦村から分村して成立はじめは佐賀藩諫早【いさはや】領であったが,江戸初期に深堀純賢が豊臣秀吉の朝鮮出兵中,筑前の戸萱,平山千石を秣料として公儀に献上した代地として,帰陣後主君鍋島直茂から深海村,中山村,江浦村を拝領したという(深堀茂宅由緒)諫早郷に属す村高は,「天保国絵図」「元禄国絵図」「天明村々目録」ともに390石余,「天保郷帳」519石余「旧高旧領」には当村名が見えず,江ノ浦村843石余のうちに含まれている給人・地米高は,「玄梁院様配分帳」には見えず,「大小配分石高帳」では鍋島左馬助(深堀領)58石余村の位置は,地元の伝承では江ノ浦村の南東部(現飯盛町上原名・後田名周辺)といわれるところが,嘉永5年の高来郡土師尾村江浦村図(県立長崎図書館蔵)には鍋島官左衛門(深堀)領が,六町分のうちを主とし,南東側にはそれより少なく,少分ずつ散在する形に描かれている(八町分の文字はない)しかもその全体の地米高はさほど多いとも見えないその高は「大小配分石高帳」の示す地米58石に見合うぐらいのものと見てとれる一方,地元で八町分のうちとする後田名には諫早家老寺田氏が20石知行していたこと,後田神社は天明の飢饉の頃寺田氏が勧請したこと(江ノ浦村郷土史)などが知られ,地元の説と矛盾する点があり,実態は今後の究明を待つほかない明治初年江ノ浦村の一部となる明治2年佐賀藩は新たに村仕組を布達しており,これに基づくものであろう
解説文を自分にメール
メアド:Milana@docomo.ne.jp

(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7449079
最終更新日:2009-03-01




ケータイ辞書 JLogosトップ