ケータイ辞書JLogosロゴ 三井楽村(近世)


長崎県>三井楽町

 江戸期〜明治22年の村名。肥前国松浦郡のうち。五島藩領。三井楽掛に属す。村高は,正保絵図高150石余,万治2年今高301石余(以上,五島編年史),「旧高旧領」1,648石余。「寛文4年高辻帳」「元禄郷帳」「天保郷帳」には当村名は見えず,これらに見える浜之畔【はまのくり】村・柏村・牛之浦村・貝津村の4か村が当村にあたる。この4か村と嵯峨島村は,「旧高旧領」には記載されておらず,当村の村高のうちに含まれており,幕末・維新期までに当村の一部になったと思われる。藩は当地に三井楽掛を設けて代官を置き,三井楽村・浜之畔村・貝津村・柏村・牛之浦村・嵯峨島村を支配した。富江領分知以前の五島御一円之時惣高帳(明暦・万治年間頃か)によれば,村高301石余の内訳は蔵入地289石余(96.14%)・給地10石余(3.32%)・寺社領1石余(五島編年史/県史藩政編)。村内に公田と私田があり,地百姓・浜百姓・竈百姓がいた。公田は地百姓と浜百姓が耕作し,竈百姓は私田の耕作と製塩・炭焼に従事した。公田の小作料(年貢)は10石に対して2割9分〜4割,ほかに現金や麻・苧・藍・畳・苫・稲巻を上納した。公田の耕作は毎年くじで決めた。竈百姓は1軒につき木炭60俵・食塩若干・銀500匁と労役賦課があった。木炭の代わりに薪で代納することもあった。町人・商人は冥加金として銀を上納した。漁業に関しては,鯨・海豚・鮪は現物上納(五島通史・三井楽町郷土誌)。寛永18年三井楽筋と柏・嵯峨島に遠見番所を設置。神社は,浜之畔村鎮守の天満神社,貝津村鎮守の貝津神社,嵯峨島村鎮守の八幡神社,柏村鎮守の柏神社,牛之浦村鎮守の丑浦神社,葉砂間鎮守の葉砂間神社,浜窄鎮守の浜窄神社がある。寺院は浄土宗良永寺があり,本尊は阿弥陀如来。明治2年の戸口535・2,664,うち士族3・17,卒族9・45,社家1・8,寺僧1・3,百姓378・1,896,職人3・10,田舎町人140・685,馬37。同4年福江県を経て長崎県に所属。同7年三井楽小学校,同8年嵯峨島小学校,同9年岳小学校が開校。同11年南松浦郡に属す。同年岳カトリック教会建設。「郡村誌」によれば,村の幅員は東西約1里9町・南北1里30町余,地勢は「北東横山ヨリ山脈桐ノ木山ニ連ナリ,一面高ク聳ヘ屏風ヲ列スルカ如ク,西南ハ平濶ニシテ,中央京ノ岳孤立シ,嵯峨島西ニ当リ海中ニ横フ,運輸便利,薪炭共ニ乏シ」,地味は「其色赤黒,其質下,稲・粱ニ宜ク雑穀ニ適ス,水脈薄ク旱ニ苦ム」とあり,村内は浜ノ畔郷・大川郷・柏郷・岳郷・淵ノ元郷・丑ノ浦郷・葉砂間郷・浜窄郷・海津郷・嵯峨島郷に分かれ,税地は田22町余・畑455町余の合計478町余,改正反別は田51町余・畑1,168町余・宅地38町余・山林99町余・原野569町余・雑種287町余などの合計2,213町余,地租は米58石余・麦410石余・粟383石余・金10円余,改正租金は2,599円余,戸数は本籍647・社8(村社1・雑社7)・寺1の合計656,人口は男1,644・女1,478の合計3,122,牛1,095・馬128,船66(200石未満50石以上5・50石未満漁船61)。また,神社は村社の天満神社のほか柏神社・丑ノ浦神社・浜窄神社・葉砂間神社・海津神社・八幡神社・淵ノ元神社が鎮座,寺院は浄土宗明円山良永寺があり,学校は三井楽小学校(明治9年の生徒数は男41・女3)・嵯峨島分校(同男のみ8)・岳分校(同男のみ9)・葉砂間分校(明治12年の生徒数は男のみ14)・海津分校(同13年の生徒数は男79・女3)が設置され,浜ノ畔郷に郵便局があり,民業戸数は農業641・商業20・工業3・漁業30,物産は米169石・麦1,535石余・粟326石・大豆1,170石(うち移出高738石)・甘薯384万735斤・牛56・馬4・干鰘4万5,000斤(同3万6,000斤)・鰹節450斤(同300斤)・鮪1,500斤(同1,400斤)・鯣1,200斤(同1,000斤)・鰤2,000尾(同1,900尾)・黒魚8,000尾・鹿尾菜4万斤(同8,000斤)・和布1万斤(同8,000斤)・石花菜2万5,000斤(同2万斤)・於胡2万4,000斤(同2万斤)・唐豆102石余・酒117石余・綿1,130斤・鮪骨250斤(同250斤)・鮪油3斗余・鮪糟7貫目(同7貫目)で,移出先は大坂・肥後・肥前などであると記される。明治22年市制町村制施行による三井楽村となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7449407
最終更新日:2009-03-01




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