ケータイ辞書JLogosロゴ 守山郷(中世)


長崎県>吾妻町

 鎌倉期〜戦国期に見える郷名。肥前国高来【たかき】郡山田荘のうち。守山村とも見える。正安3年6月11日関東寄進状案(実相院文書/鎌遺20803)によれば,山田荘内高久守山郷地頭職がこの日鎌倉幕府によって肥前河上社に寄進されている。やがて同地をめぐって河上社と山田荘領家兼地頭北条随時との間で相論が起こったが,正和4年11月23日関東下知状案(実相院文書/佐賀県史料集成15)によるとこれを裁いた鎌倉幕府は地頭職と領家職とをそれぞれ違乱なく知行しようという両者の和与を確認する判決を下した。南北朝期に入り,建武元年8月5日藤原家直和与状によると河上社の有する守山郷の地頭職は同社の座主と大宮司とが半分ずつ領掌する方法が採用されている(河上神社文書/南北朝遺105)。正平年間には菊池菊童が同郷地頭職を押妨したため,河上社は征西将軍宮に訴えて,正平16年10月28日菊童に対しこれを停止する旨の征西将軍宮(懐良親王)令旨が出されている(同前/南北朝遺4317)。下って戦国期,急速に発展した戦国大名竜造寺氏の南下を恐れた島津氏は,有馬氏と結んで島原半島に出兵した。天正12年3月24日の沖田畷の合戦で島津義久・有馬晴信連合軍が竜造寺隆信を討ち取ったのち,義久の家老上井覚兼は,4月3日に島津忠長・伊集院忠棟とともに船にて神代・伊福・森山(守山)を偵察し,足軽を遣わして沿岸の小村を焼かせ,5日に神代・伊福・森山の諸城を降伏させ,6日には人質を請取った。8日に伊福に入った覚兼は,諫早計略を策し,9日,森山にいる有馬晴信に前日の談合の結果を報じ,11日,島津忠長に森山に移ることを勧めた。14日,忠長が移れず森山が不番になったので覚兼が手の衆を差し向け,17日には新納忠元が森山城に入った。20日に覚兼も川上忠智・山田有信・伊地知重秀・八木昌信とともに森山に赴いて談合をし,地頭森山殿に礼をいって,山田城の検分をした。伊福にて人質の沙汰などを行っていた覚兼のもとに,29日,新納忠元より,森山に隠れていた深江の牢人10人余のうち,成敗した4人の妻子・所従の処分について尋ねてきたが,覚兼は地下役人に引き渡す旨を返答しており,また,有馬晴信の請により「森山より一里程さき」の築城の地を宮崎衆らに検分させた。5月1日,温泉山満明寺の廃墟を見て回り,覚兼は伊福へ,新納忠元・栖本親高は森山に戻った(上井覚兼日記/大日本古記録)。なお,フロイスは,1589年(天正17年)11月イエズス会のコエリヨ神父が4人の修道士を伴って加津佐を出発し,有馬領内を布教のため巡歴した折,2番目に訪れた守山というやや大きい村では,住民の抵抗や事故で説教が妨げられたものの,876人の受洗者があったことを伝えている(フロイス日本史11)。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7449546
最終更新日:2009-03-01




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