ケータイ辞書JLogosロゴ 森山村(近世)


長崎県>森山町

 江戸期〜明治22年の村名。肥前国高来【たかき】郡のうち。佐賀藩諫早領。諫早郷に属す。諫早領のうち南目と称した地域の東部にあたる。村高は,「正保国絵図」「元禄国絵図」「天明村々目録」ともに137石余,「天保郷帳」184石余,「旧高旧領」780石余。「旧高旧領」における村高の増加は,干潟干拓による成果とみられる。また,「旧高旧領」の当村の村高には,「正保国絵図」「元禄国絵図」「天明村々目録」「天保郷帳」に記載される杉谷村25石余を含んでいる。江戸中後期以降,佐賀藩領(諫早領)内では杉谷村は当村の一部として扱われた。給人・地米高は,「玄梁院様配分帳」「大小配分石高帳」ともに諫早豊前(諫早領)115石余。天保3年の「諫早私領田畑石高帳」によれば,田畑・屋敷の地米115石余,出来田畑の地米99石余で,地米高合計215石余。当村の干潟干拓は寛文3年陣野孫右衛門父子が完成させた万灯籠をはじめ,享和3年の亥築籠,文化12年の九平次開などがあり,明治期に入っても明六開・十六開が形成された。村の東部の干潟対岸は島原藩領で,干拓の進展に伴い漁業権・領海などにつき当村と争論を生ずることもあった。江戸末期,当村の医師土橋多助は質素倹約に務め公益・慈善事業に尽力した。神社はお四面さんと俗称される氏神の河上神社,五穀岳に祀られる五穀さん(石祠)があり,村民の信仰を集めた。寺院は浄土真宗木辺派の安祐寺がある。明治4年佐賀県,伊万里県を経て,同5年長崎県に所属。同11年北高来郡に属す。明治6年当村東部と唐比【からこ】村とが連合して森山学校を開設し,のち森山尋常小学校となった。明治22年森山村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7449549
最終更新日:2009-03-01




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