ケータイ辞書JLogosロゴ 山田荘(中世)


長崎県>吾妻町

 鎌倉期〜南北朝期に見える荘園名。高来郡のうち。弘安9年閏12月28日の蒙古・岩門合戦恩賞地配分注文案に,蒙古合戦の恩賞地として「肥前国高木西郷山田庄領家惣地頭両職」が肥前国守護北条時定に与えられたことが見える(比志島文書/鎌遺16130)。当荘の両職はその後定宗―随時―治時と肥後国阿蘇郡小国郷を根拠とした北条一門の手に伝領された。山田荘は,正応5年8月16日の河上宮造営用途支配惣田数注文には「山田庄二百四十丁」とあり,その規模がうかがえる(河上神社文書/鎌遺17984)。元徳4年正月日の河上社雑掌家邦重陳状写によれば,正安3年6月11日に山田荘内高久守山郷が河上社の祈祷勤修のために寄進されたところ(実相院文書/鎌遺20803),山田荘領家兼地頭北条随時の代官神田聞・田口法幸・平野行真房等が大宮司高木経貞の下地押領と新田検注の打止を訴えたが(河上宮古文書写/佐賀県史料集成2),正和4年11月23日関東下知状案によれば,守山村のことにつき,河上社雑掌家邦と領家兼地頭北条随時代行真との間で和与が成立し,領家職については「本田〈号起請田〉壱町四段弐丈中所当米」への河上社の対捍を停止し,以前の未進分は免除され,地頭職については下地と新田検注・収納が随時に付された(実相院文書/同前15)。山田荘は,得宗領であったために,鎌倉幕府の滅亡によって没収されたが,暦応4年8月28日に豊前国八坂下荘(現大分県杵築市)の替として山田荘地頭職(阿蘇弾正少弼治時跡)が田原直貞に充行われたことが,「大友家文書録」の足利尊氏充行状写・高師直施行状写および「田原文書」の高師直施行状に見える(南北朝遺1697・1699・1698)。貞和2年2月4日の足利将軍家御教書では,田原貞広の申状により山田荘の当知行の実否・支え申すべき仁の有無についての注進を稙田民部大夫に命じている(稙田文書/南北朝遺2174)。地頭職は,観応元年8月18日田原正曇譲状によると,田原直貞から一旦嫡子貞広に譲与したものを悔い返して嫡孫氏能に譲っており,文和3年3月23日には安堵の下文を求めた大友氏時の挙状が出されている(草野文書/南北朝遺2824・3662)。しかし,南北朝の内乱によって九州の勢力図が変化する毎に,当荘の地頭職もその動きに翻弄された。貞和5年11月19日足利直冬充行状案では,山田荘地頭職が直冬方詫磨宗直に充行われ,観応2年6月29日には詫磨宗直充行状で「山田庄内小部村三分一地頭職」が料所として宗直から詫磨西亀一に充行われた(詫磨文書/南北朝遺2664・3119)。一方,正平16年10月28日には征西将軍宮(懐良親王)令旨で河上社に山田荘内守山郷地頭職が安堵されている(河上神社文書/南北朝遺4317)。応安8年2月日田原氏能軍忠状によれば,同5年8月,高来郡で南朝方蜂起の時,今川了俊・山名少輔次郎の命により氏能は自分の分領である山田荘内の山田・野井両城に親類木付左近将監以下数輩を配置し南朝方と合戦をした(入江文書/大分県史料10)。同8年正月28日今川了俊書下によると,了俊は氏能に対し名主小地頭へ山田荘惣地頭所務を催促することを命じている(同前)。氏能にあてた欠年5月14日今川了俊書状には「山田庄四分一事,以別儀しハらく小地頭ニさしせかれ候由事,先立て承候」と記され(大東急記念文庫所蔵文書/県史古代中世編),また某年の今川了俊(貞世)書状にも山田荘のことが見えている(入江文書/大分県史料10)。康暦元年12月24日,田原親貞は父氏能の譲りにより山田荘地頭職安堵の足利義満御判下文を得ており(同前),年月日不明の田原氏所領目録には「肥前国山田庄」が記されている(大友家文書録/大分県史料31)。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7449588
最終更新日:2009-03-01




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