ケータイ辞書JLogosロゴ 山田(中世)


長崎県>吾妻町

 南北朝期から見える地名。高来郡のうち。応安8年2月日田原氏能軍忠状によると,同5年8月に高来郡で南朝方が蜂起した際,氏能は同郡山田荘内山田・野井両城に親類木付左近将監以下手の者を置いて,これを防ぎ,戦功をあげたと記されている(入江文書/大分県史料10)。また,同7年6月日深堀時久代幸久軍忠状によれば「為御敵退治,去十二日高来郡山田御移之時,令御共」と見える(深堀文書/佐賀県史料集成4)。山田は,北朝方の田原氏の所領であり,城が築かれていたことがわかる。下って戦国期の天正12年,島津・有馬連合軍が竜造寺氏を滅ぼした後,伊福城にとどまっていた島津義久の重臣上井覚兼が4月20日に山田城を検分し,同22日には山田以下の地が有馬晴信に委ねられた(上井覚兼日記/大日本古記録)。以後山田城は,有馬氏の家臣である在地領主山田氏の居城となったものと考えられる(城郭大系)。現在,吾妻町栗林名城に,山田城二ノ丸跡の石垣が残っている(同前)。その後,1589年(天正17年)11月,イエズス会のコエリヨ神父は,有馬晴信の応援を得て4人の日本人修道士を伴って加津佐を出発し,布教のため有馬領内を巡歴したが,最初の地の山田に到着すると,仏僧との交渉に当たり,その結果480人の受洗者があった。この次第をフロイスが伝えている(フロイス日本史11)。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7449589
最終更新日:2009-03-01




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