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- 万町(近世)とは
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![]() | 万町(近世) 江戸期~明治7年の町名福井城下のうち下呉服町組の1町下呉服町の東側から東西に延び,北は千日町,南は鍵町(鶴屋町),東は亀屋町に隣接する万治2年の城下図(松平文庫)では,当町と鍵町のあたりは法泉寺・千福寺・称念寺などの寺院や藩蔵奉行の屋敷地となっており,貞享2年の福井城下絵図(同前)に至って町名が登場することから,万治2年4月の大火以後,新たに町屋が形成された貞享2年の城下図や正徳3年の城下図(福井市立郷土歴史博物館所蔵)では,町内に江戸期福井三十三か所観音の第12番に数えられた御岳寺があり,文化3年の福井城下図(松平文庫)になると,家老芦田図書の与力山岡与右衛門の屋敷が記入されている正徳3年頃の御城下惣町間数帳に「万町 七拾四間半,川ヨリ亀屋町迄横町折廻シ共ニ,但道幅二間半」と町の規模が記されているが,この川とは,当町の西端を流れて下呉服町との境をなす芝原用水の分流光明寺用水を指す正徳年間の課役免除の人附には「御朱印御黒印無之,無役にて先祖より持来の人附」の項に「万町 柴田意徳,大工甚左衛門,盛覚寺屋敷」と見える(稿本福井市史)明治7年町名改正時の戸数32同年春山下町の一部となる |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 万町(近世) 江戸期~明治22年の町名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 万町(近世) 江戸期の広域町名宮津城下六町組の1組万町と金屋谷で町組が構成されていた寛文初年以前の地子地は高25石余で,ほかは皆原村の小散田地(地方秘鑑)同6年の反別は1町4反余で地子米は16石余(京極丹後守様御上地町地子並ニ家別)家数は,寛文6年162軒,元禄16年163軒,寛保4年162軒(981人),宝暦年間160軒余,明治維新以前240軒(宮津旧記・宮津府志・丹後宮津志)貞享元年大野村の水晶山の開発について藩から募集があり,当町の3人が応募した同3年の年寄苦労米は2石余であった天和2年当町の住民は御用金65両を藩へ上納したまた,例年の山王祭礼の練物芸として,当町は塩を扱っていることにちなんでハマグリ踊を披露したという(宮津旧記)... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 万町(近世) 江戸期の町名松山16か町の1町淀川水系宇陀川流域に位置する元禄8年の地子米3石余(宇陀郡史料)同16年検地での屋敷数は西側10・東側9元禄年間の町年寄は又助・孫兵衛慶応2年米価高値のため助請銀100文が支給され,渡方19人(大宇陀町史)町の規模は東西33間・南北34間(町村誌集)慶応2年の松山町記録には万六町と見え(大宇陀町史),江戸末期には六軒町と合併して万六町となった(町村誌集)... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」