ケータイ辞書JLogosロゴ 葦北荘(中世)


熊本県>芦北町

 鎌倉期〜室町期に見える荘園名。葦北郡のうち。古代の葦北郡域が荘園化したものと推定される。荘園としての成立の時期や本所・領家などについては一切不明であるが,肥後南部の球磨郡・八代郡がいずれも平家領荘園であったことを考慮すれば,おそらく平安末期に平家領荘園として成立したものと思われる。初見は文保2年7月5日の北条高時書下(詫摩文書/県史料中世5)で,「肥後国葦北庄佐敷・久多良木両浦事」とあり,北条高時が,当荘内の佐敷・久多良木両浦を得宗の被官長崎治部左衛門尉宗行に安堵しており,この頃葦北荘は得宗領であった。なお,久多良木は現在の八代郡坂本村久多良木にあたり,荘域はこの付近まで広がっていたと考えられる。しかし元弘の乱とそれに続く建武政権の樹立により,北条氏の手から離れ,年月日未詳の恵良惟澄注進闕所中指合所領注文写(阿蘇文書/大日古13‐1)によれば,元弘の乱に際して反北条の兵を挙げた武士への恩賞地や菊池武重支配の料所となっている。その後,南北朝期に至ると,それぞれの土地の支配は軍事力に左右されることが多く,北朝方では,建武5年3月7日少弐頼尚が詫磨別当宗直に「葦北庄内野津彦太郎・谷山五郎左衛門入道・北島弥次郎・同八郎次郎・同七郎等跡」などを兵粮料所として預け置いているが(詫摩文書/県史料中世5),南朝方でも恵良惟澄が正平2年9月20日の恵良惟澄官軍恩賞所望交名并闕所地注文案写(阿蘇文書/大日古13‐1)で葦北荘地頭職を希望している。両朝勢力は当荘をめぐって,たびたび激戦を交えているが,なかでも貞和2年12月日の相良頼氏軍忠状(相良家文書/大日古5‐1)に見える「葦北荘田河内関所合戦」は有名。こうしたなかで球磨郡の相良氏の勢力が次第に伸張し,弘和3年政治的判断により北朝方から南朝方にのりかえた相良前頼に対して,懐良親王は同年4月14日の征西将軍宮令旨(同前)を与え,「玖麻郡内并葦北庄之事」を領掌すべきことを命じた。この時期には荘園としての機能は完全に停止し,以後相良氏支配のもとでは,「葦北庄」と記されても,「葦北郡」と同義に用いられることが一般的になったと考えられる。元中4年9月26日の牛屎元勝代山内元清軍忠目安案(牛屎院文書/県史料中世5)には「当国葦北庄湯浦城御敵忍取之間」とあり,当荘内の湯浦城が落とされたため,相良三郎とともに湯浦城を取り返したことが述べられている。下って寛正6年4月9日の某給分坪付(深水文書/県史料中世3)では,相良長続が「蘆北庄水俣浦内うきめんの水田」1所3反を某に宛行っている。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7449795
最終更新日:2009-03-01




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