ケータイ辞書JLogosロゴ 阿蘇荘(中世)


熊本県>阿蘇町

 平安末期〜南北朝期に見える荘園名。阿蘇郡のうち。阿蘇郡一帯を荘域とした荘園で,史料上「阿蘇荘」と記される例は少なく,「阿蘇社」と記される場合がほとんどで,阿蘇本社領を意味した。寛弘8年2月11日の肥後阿蘇郡四境注文写(阿蘇文書/大日古13‐2)には「任先年注文,所成庁宣也,承暦二年二月十四日 大介源朝臣花押」とあり,この四境注文をもって,承暦2年に国免の荘として成立したと推定される。このことは,元弘3年11月4日の雑訴決断所牒(同前/大日古13‐1)にある「任承暦国宣,可打渡彼堺」という文言からもわかる。先の四境注文から推定すると,東境の宇歩山は現産山【うぶやま】村東の山,滝水大路は現波野村滝水,仁田津東は現波野村波野の仁田水,長野東は現高森町野尻の永野,西境の恩乃は尾ノ岳,鞍山は鞍岳に比定され,阿蘇谷および南郷谷を中心とする,阿蘇の北および南の両火口原地域がこの時の立荘の対象になった地域と推定され(中世の神社と社領),平治元年9月29日の太政官牒案(安楽寿院古文書/平遺3029)の末社2か所の1つに「壱処〈阿蘇社〉在肥後国」とあり,当荘は安楽寿院領荘園で,この時,院内の新御塔領に寄進され,官使・検非違使・院宮諸司・国使らの入部と勅事院事・大小国役を停止されている。鎌倉期と推定される年月日未詳の安楽寿院領諸荘所済注文案(同前/岐阜県史史料編古代・中世4)には「肥後国阿蘇庄 中院右大臣雅定〈少将入道〉円乗一〈正三〉家定 米八十石〈田畠無文事(書カ)〉件寺用依傍庄之妨,廿石減之,又文治四年号地頭之妨,可半減由云々,然而当所済五十石也,加御仏聖(餉カ)云々」と見える。これから推定すると,当荘は立荘の際,当時の国司源某の仲介で,村上源氏の権大納言顕房に寄進されたと考えられ,阿蘇大宮司家が在地領主として寄進主体となったものと思われる。村上源氏と当荘との関係が明記されるのは前記の注文案に見える雅定からで,顕房の子雅実の子にあたる雅定は,当荘の領家職を保有していたと考えられる。おそらく本家職を鳥羽院に寄進し,鳥羽院が御願寺である安楽寿院に施入したものと思われる。鳥羽院は永治元年3月出家するが,この時当荘を含めた9か所を美福門院に譲与し,美福門院の沙汰で前記のように平治元年安楽寿院内の新御塔領とした。翌永暦元年11月美福門院が没すると,その遺領は鳥羽院と美福門院との間の娘八条院暲子に伝えられ,「玉葉」安元元年4月15日条には「阿蘇社……件社八条女院知行給,定房卿領所也」と見える。領家職は雅定から猶子定房(雅実の弟雅兼の子)に譲られ,前記の注文案によれば,定房から少将入道円乗(定房の子定忠),その子家定と伝えられたことが知られる。鎌倉末期の永嘉門院(瑞子女王)使家知申状并御領目録(竹内文平氏所蔵文書/神奈川県史資料編2)には,安楽寿院領荘園の1つとして「肥後国阿蘇社〈守忠 御年貢三千疋〉郡浦〈万里小路大納言入道(師親)〉神宮寺〈同,里々両所知行不可有相違之由,被下 院宣於親房朝臣了〉甲佐社〈宰相典侍(源親子),御年貢二千疋〉」とあり,当荘は当時昭慶門院領であり,領家は前記家定の孫守忠であった。阿蘇社領は,立荘時の阿蘇本社領のほかに末社である甲佐・健軍・郡浦の3社領があるが,この御領目録では健軍社が阿蘇社のなかに包含され,代わりに神宮寺領が記されている。この時の阿蘇社以外の領家職は雅定の子孫北畠氏に伝えられ,郡浦の師親は雅定の玄孫雅家の子,神宮寺の親房は師親の孫,甲佐社の親子は師親の娘にあたる。前記の末社3社の末社としての初見は,甲佐社が康治2年の年紀を有する年月日未詳の阿蘇大宮司宇治惟宣解(阿蘇文書/大日古13‐1)によれば保延3年,健軍社が建久6年2月日の肥後国司庁宣(同前),郡浦社が久安6年正月22日の肥後国司庁宣案(同前/大日古13‐2)であり,これら3社が末社となるのは12世紀のことと推定される。12世紀末には,本社領として矢部郷と小国郷南半分が加えられた。治承4年正月日の源大納言(定房)家政所下文写(同前)によれば,「阿蘇并健軍両社」の大宮司職に宇治惟泰を補任し,社務を執行し,年貢の沙汰をするよう命じており,領家が進退権をもっていたことが知られる。ところが建久7年6月19日の阿蘇社領家下文(同前/大日古13‐1)で,阿蘇三社大宮司職に宇治惟次が任じられたが,同年8月1日には北条時政が宇治惟次を阿蘇社大宮司職に補任し,「但於十二月朔幣并上分稲事者,可為大宮司沙汰之状如件」との但書きを付しており,北条時政が領家と並んで大宮司職の進退権を獲得していたことが知られる。これより先の建久6年正月11日の北条時政下文(同前)が北条時政が当荘に関与した初見であり,惟次の申請した往古屋敷について,別納として所当・公事を勤仕するよう命じている。同9年7月28日の阿蘇社領家下文(同前)では,「三社神官等」に宛てて,免田の地利の半分をもって大宮司惟次の沙汰として造宮用途に宛てるよう命じ,一方同年と推定される年未詳12月15日の北条時政裁許状(同前)では,「阿蘇別宮 健宮 甲佐両社分例下米事」について,前任の国司の時に宣旨を申請して「彼米代公田内片寄三百町」を奉免したが,当任国司は郡司らの濫訴により,在庁官人らと結託してこの片寄免田を顛倒しようとしているので,「不意之沙汰有出来事者,以此等証文,可被触示在庁人々」と命じている。領家方の大宮司職補任の最後は正治2年4月15日の阿蘇社領家下文(同前)であり,宇治惟継(次か)の任が満ちたため他人に改補したが,供僧・祝らの訴えにより,再び惟継を補任する旨が記されており,領家の権威の弱体化の様子がうかがわれる。以後,承久2年9月14日の北条義時袖判下文をはじめとして,元仁2年3月5日,安貞2年9月15日および文暦2年8月27日の北条泰時袖判下文,寛元元年11月9日の北条経時袖判下文,弘安10年10月13日の北条為時袖判下文などが大宮司職を安堵するもので,北条氏得宗および大宮司の代替りの時に新たな安堵状が発給され,大宮司職には10か村(のち8か村)の所領が付随していた(同前)。このように北条氏は,遅くとも承久2年までには領家を排除して当荘支配の実権を掌握し,末社3社にもその支配を広げていった。こうした北条氏進出の背景には,当荘全体の惣地頭職と惣預所職の兼帯があったとみられ,例えば建仁3年3月29日,北条時政が岩坂郷預所代に宇治惟次を,同郷地頭代に故惟時の子息を任じているのは,その現れと考えられる。一方阿蘇大宮司家の支配力には制約が加えられ,前記のように北条氏の安堵を求めることで荘内での立場を維持しなければならなかった。これらの所職は,時政から義時―泰時―時氏―時頼と得宗家に移ったあと,時頼の弟で鎮西探題になった時定から,定宗―随時と伝えられている。時定は建長7年,承久の乱で京方についた菊池・葉室両氏や阿蘇大宮司家の監視の意味もあって,葉室氏の旧領である当荘内の小国郷に下向し,満願寺(現南小国町)を建立した(小国郷史)。そして弘安3年10月14日の北条時定書状写(満願寺文書/県史料中世1)によれば,領家に交渉して「阿蘇社領内色見・山鳥」を譲与してもらい,満願寺領としたことが知られる。その子定宗は,系図によっては時頼の子時厳の子とするものもあり,随時は阿蘇氏を称している。現在満願寺にはこの北条氏3代の墓が残る。領家への貢納物は,前記の阿蘇大宮司宇治惟宣解(阿蘇文書/大日古13‐1)によれば,所当は年別に米230石・絹1,700疋で,ほかに蘇芳12本・干鳥180鳥・甘葛14筒・紫革5,000本・紙160帖・青革8枚・弓4張・高杯2本・唐絹10段・棕2口・油2斗・手洗2口・井莚3枚・虎笞2口・台2本・合子400枚・色革7枚・鉢5口・桂心5両・牛鍬2具・綿衣10領・舂米50石があった。このように多彩なことから,当荘が一郡の物産および加工手段のすべてを収奪しうる郡衙の機能を継承していたことが推測される。鎌倉期の本家への年貢は,前記の安楽寿院領諸荘所済注文案によれば,本来80石であったが,地頭の妨により50石となっていたという。また鎌倉末期の領家への年貢は前記の永嘉門院(瑞子女王)使家知申状并御領目録では3,000疋であった。なお元徳元年と推定される年未詳9月28日付の崇顕(金沢貞顕)書状(金沢文庫文書/神奈川県史資料編2)に「鎮西阿曽庄恠異事」,同2年5月10日の肥後阿蘇荘内南坂梨郷田畠坪付注文案(阿蘇文書/大日古13‐1)に「ひこのくにあそ御しやう内ミなミさかなしのてんちけミの事」,また鎌倉期と推定される年未詳6月28日付の法印定有挙状(同前)に「□(肥)後国阿蘇庄雑掌俊久」とあるものなどが,鎌倉期荘名で見えるものである。鎌倉幕府が滅亡すると当荘の支配体制は大きく変化する。元弘3年10月2日の後醍醐天皇綸旨(阿蘇神社文書/県史料中世1)では,大宮司惟直に対し阿蘇郡の四至堺を安堵し,また同年月日の後醍醐天皇綸旨(同前)では「肥後国甲佐・健軍・郡浦等三社,止本家領家之号,付本社可令管領」とあり,末社3社については,これまでの本家・領家関係を解消して,本社の管領下に置くことが認められた。これは「建武年間記」建武元年5月7日条に「諸国一宮事,本家・領家職事,可停止其号由,以前治定了」に対応するものである(群書25)。前記の同3年11月4日の雑訴決断所牒に「当国阿蘇社大宮司惟直申社領阿蘇庄四至堺事」とあり,肥後国守護所に命じて当荘を,承暦の国宣の四至堺に任せて大宮司惟直に打ち渡すよう命じている。下って貞和5年10月18日の足利直冬寄進状(阿蘇文書/大日古13‐2)では,「両殿(尊氏・直義)御安穏,所願成就」のため当荘を阿蘇社に寄進し,同6年9月23日の足利直冬御教書写(同前)では「阿蘇・健軍・甲佐・郡浦」の4社を寄進することを大宮司惟時に伝えている。次いで観応元年9月15日,足利尊氏は「肥後国阿蘇庄地頭職」の安堵を大宮司惟時に約した(同前)。下って正平19年7月10日の恵良惟澄譲状写(同前)には「四箇社領本家・領家・地頭兼大宮司職并当国・他国所領等」とあり,一円神領として嫡子惟村に譲られていたことが知られ,荘名は天授2年5月25日の沙弥道義寄進状(西巌殿寺文書/県史料中世1)を最後に見られなくなる。当荘は東・西・南・北の4か郷と小国郷からなり,南郷は南郷谷に,東・西・北の3郷は阿蘇谷に位置した。南郷については,「吾妻鏡」養和元年2月29日条に「南郷大宮司惟安」とあるように(国史大系),阿蘇大宮司家の本拠の置かれた地域で,前記の建久6年正月11日の北条時政下文に「阿蘇太郎惟次依令申往古屋敷之由」とあるように古くから大宮司家の屋敷があり,この下文で南郷は別納として認められ,南郷内の10か村(中村・下田・永野・世田・荒木・上久木野・下久木野・大野・柏・草部)は大宮司家の世襲私領であった。東・北・西の3か郷については,建武3年3月11日の阿蘇社領郷村注文写(阿蘇文書/大日古13‐1)によれば,中司沙汰分(大宮司に対し所当米を負担する所当米田)で,各郷に郷の沙汰人として,東郷には権大宮司,北郷には渋河兵庫助,西郷には下田常陸介がいた。各郷は7か所の小郷と数か所の村からなっており,面積からみても,北郷が少々狭いが,人為的な均分があったことを推測させる。郷と村の違いは聚落の規模・総田地面積の大小に基づくものと思われ,郷は10町(1家分)の倍数の本田を割り当てられていた。東郷は「南坂梨郷」「太山寺・浄土寺」「赤丹郷西」「北坂梨郷」「古宇津郷」「東大豆札・三窪郷」「手野両郷」「不作村」「松木村」「広名村」「久家村」「国造神護寺」「大籠村」「西津大籠村」であり,阿蘇谷の東隅から外輪山山麓に分布する。北郷は「野中郷」「赤丹郷原尻」「大門郷」「阿蘇品郷」「隈崎郷」「井手郷」「小野田〈下山田・北薗・河島方・上井手〉郷」「狩集村」「牛峰村」「金凝神護寺」「産山村」「山鹿村」「山田寺村」であり,阿蘇谷東北隅から北隅,そして外輪山山麓に分布する(東郷と混在)。西郷は「小倉郷」「綾野・小陣郷」「小里郷」「湯浦郷」「倉原郷」「上竹原郷」「下竹原郷」「狩尾村」「的石村」「役犬原」「河彼流」であり,阿蘇谷の北西隅から西隅にかけて分布する。これらの諸郷村の田地は,郷米田・免田・給田・その他に分けられ,阿蘇社の祭祀・造営・人給などの費用にあてられた。なお,同注文写に南郷の記載が見られないのは,前述したように阿蘇大宮司家の本拠が南郷に置かれたためと考えられる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7449809
最終更新日:2009-03-01




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