ケータイ辞書JLogosロゴ 阿蘇品郷(中世)


熊本県>一の宮町

南北朝期〜戦国期に見える郷名阿蘇郡北郷のうち地名としては,治承2年3月13日の阿蘇社宮師僧長慶譲状案(阿蘇文書/大日古13‐1)に「一所〈阿蘇品〉一丁二段三丈」とあるのが初見下って元徳2年2月23日の阿蘇社造営料木注文写では六祝分として3本の材木を納めており,正慶元年9月2日の阿蘇社造営料釘等支配状写では竹釘・葺縄などを納め,また正慶元年11月22日の阿蘇社造営料鍛冶炭苫未進注文写には,「炭廿二タ一籠苫二帖 阿蘇品 一タ十一月卅日,二タ十二月二日,二タ三日,二タ十二日,二タ十二月廿日」とあり,阿蘇社造営のための炭や苫の未進があったことが知られる(同前)郷名の初見は建武3年3月11日の阿蘇社領郷村注文写(同前)で,渋河兵庫助沙汰分の北郷のうちとして「一所三十町 阿蘇品卿(郷カ)」とある正平7年2月吉日の阿蘇社上葺等次第(同前)によれば,国造宮上葺を,また天授3年の阿蘇山衆徒料足等納帳(西巌殿寺文書/県史料中世1)によれば当郷が護摩供料6石6斗を,それぞれ負担したことが知られる至徳2年8月7日の阿蘇社領郷々注文(阿蘇文書/大日古13‐1)には3家分(30町)として記され,知行人は南郷代官の渋河氏と「なかゝ」の代官三窪新左衛門の両名であったなお建武元年12月25日の宇治惟時充行状写(同前/大日古13‐2)によって郡浦社領惣領政所職などを宛行われた阿蘇品六郎入道は,当郷を本貫とする人物と思われる下って応永9年卯月日の阿蘇社造営料木郷村支配注文案(同前/大日古13‐1)によれば,「あそしなのかうの分」として野椽など材木37本が宛てられ,同29年11月30日の阿蘇山衆徒等起請文写(同前/大日古13‐2)によれば,如法経供米として当郷の領家米15石が寄進されていた文明4年8月25日の阿蘇山本堂造営棟別料足日記写(同前)では「一所阿蘇品 家数二百 古家 牛峰 荻迫 隈崎 代二貫」とあり,天文14年10月20日の阿蘇社対面所造営料木切符次第写(同前)でも「阿蘇品二十町」など30町分に料木が宛て課されていたことが知られるこのように当郷の造営役は鎌倉期から知られるが,天文23年8月7日の阿蘇社造営料木郷々支配注文(同前/大日古13‐1)でも材木を納めたことが知られ,中世を通じて勤仕していた事実が確認できるそのほか天文6年6月18日の阿蘇社早乙女雇在所注文(同前)によれば,当郷からも早乙女が出されている江戸期の野中村の小村に阿蘇品があり,現在の一の宮町三野のうちに比定される
解説文を自分にメール
メアド:Milana@docomo.ne.jp

(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7449820
最終更新日:2009-03-01




ケータイ辞書 JLogosトップ