ケータイ辞書JLogosロゴ 甘木荘(中世)


熊本県>御船町

 鎌倉期〜戦国期に見える荘園名。益城【ましき】郡のうち。味木荘とも書く。初見は嘉禎2年3月17日の大友親秀譲状(大友家文書録/大分県史料31)で,「親父故豊前々司能直朝臣」より譲られた「味木庄内一楽・真万・秋永名,津留木村地頭職,付税所公文・国侍所司職」などを三男観音丸に譲与している。立荘時期などは不明であるが,寛元2年成立の「泉涌寺不可棄法師伝」(続群9上)によれば,仁安元年生まれの僧俊芿が9歳の時,生母の住む味木荘に帰ったとあり,これに従えば平安末期には立荘していたことになる。また同法師伝には「味木庄預所源憑〈摂州渡辺人〉」なる者や「味木庄若宮」が見える。「勘仲記」弘安5年3月3日条の平等院一切経会に関する記事に,「今日猶被(ママ)濫僧供味木庄急用米等多以不入,可被宛今年修理米之由被仰下之」とあり(大成),嘉元3年4月の摂籙渡荘目録(九条家文書/図書寮叢刊)に「平等院料所」として「教律上人知行之後公文信盛知行之 年貢三百五十石 凡絹三百疋」とあり,暦応5年1月の同目録にも同内容の記述があるように,平等院領であった。これに関連しては,後欠の某挙状(兼仲卿記裏文書/鎌遺14538)に「味木庄寺用□□去今両年僧前供養料等事」,年未詳11月3日の某寺供僧等書状(同前/鎌遺14968)に「味木庄当年会料事」と見える。下って南北朝期には,しばしば争奪・戦乱の場となった。興国6年11月6日の恵良惟澄軍忠状写(阿蘇文書/大日古13‐1)には「去月十六日,凶徒筑後三郎寄来味木庄御船城之間,官軍等出向,太刀打合戦」と見え,正平3年9月日の恵良惟澄軍忠状(同前)には「馬場三郎宗刑部以下,今発向味木庄,搆城墎之間,馳向致合戦」とあるように,当荘に南北両勢力の拠点が構築されたこともあった。貞和2年正月14日の田北氏所領文書目録(田北文書/大分県史料25)には「味木庄内秋永名」が見え,さらに観応3年9月20日の平泰直譲状写(同前)によれば,嫡子氏直に「あまきの庄内しんまん・秋永・つるきのむらちとうしき,つけたり,さい所のくもん,くにさふらひの所司以下下司職」などが譲与されており,田北氏に相伝されていたことがわかる。なお,年未詳正月18日の大友親世書状(同前)によれば,「味木庄内秋永村」の代わりに生葉【いくは】荘(現福岡県)内7町分を田北左近将監に預けている。また,年未詳3月6日の菊池武光書状写(阿蘇文書/大日古13‐2)によれば,甲佐宮の神用米は当荘領家方の沙汰であったという。応安3年9月12日の足利将軍(義詮)家下文(詫摩文書/県史料中世5)に「甘木庄内志名子村〈波仁田越後守跡〉」と見え,勲功の賞として詫磨氏直に宛行われており,同6年の追筆を有する8月9日の九州探題今川了俊(貞世)安堵状(同前)で安堵されている。下って文明4年の甘木荘政所方夏麦検見帳(阿蘇文書/大日古13‐1)からは,上村・下村・庄島・高島名・板良村などの当荘の地名および村名が知られる。戦国期段階の領有関係は明確ではないが,一部は阿蘇社の支配下にあったとも考えられる。永正10年9月の年紀のある甲佐町円福寺蔵阿弥陀如来座像背面墨書銘(第5回熊本の美術展 中世の美術)には,「甘木庄早河村」とあり,領主藤原朝臣式部少輔政秀なる者が檀那として見える。また,天文6年11月の年紀が見える北天満神社鰐口銘(宮崎郷土文化財基礎調査報告3)には「甘木庄御船玉虫村」とある。現在の御船町を中心に,嘉島町・甲佐町の一部にわたる地域に比定される。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7449841
最終更新日:2009-03-01




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