ケータイ辞書JLogosロゴ 阿村(近世)


熊本県>松島町

 江戸期〜明治22年の村名。天草郡のうち。はじめ教良木組,のち大矢野組に属す。はじめ肥前唐津藩領,寛永15年富岡藩領,同18年幕府領,寛文4年再び富岡藩領,同11年からは幕府領。村高は,万治検地帳40石余(天草島鏡/天草郡史料1),「天保郷帳」95石余,「旧高旧領」113石余。なお万治検地による天草郡石高半減以前は,「正保郷帳」で114石余うち田67石余・畠21石余・桑茶塩竈永荒24石余。寛永14年の天草・島原の乱に際し当村では,仏を所持する2人を除き,みなキリシタンに立ち戻ったといい,また11月18日付の細川家家老宛報告書では,当村の庄屋ら13人が郡浦【こおのうら】村惣庄屋を頼り,キリシタンの当村を捨てて郡浦村へ着船したと記している(綿考揖録)。この乱で当村はほとんど無人となったため,乱後は移民が導入されたと思われる。「肥後国誌補遺」によれば竈数14・人数132。また「天草島鏡」(天草郡史料1)によれば,天保4年の家数197・人数1,304,田が高65石余・反別11町3反余,畑が高29石余・反別7町3反余うち新田畑高54石余。万延元年には206軒・1,535人(天草近代年譜)。当村は,寛文5年には塩浜運上が賦課されており,その頃にはすでに製塩業が行われていた。なお明治初年の塩浜面積は20余町という。干拓も行われ,天保4年字浦ノ田海面干潟およそ24町余のうち3町余の干拓が,村請,5か年計画で着手されている(天草の歴史)。弘化元年質地請戻しを要求して一揆が起こり,当村でも2軒が打ち壊されている(天草近代年譜)。富岡県,天草県,長崎府,長崎県,八代県,白川県を経て,明治9年熊本県に所属。同年小学校が開校。同10年八代海の築島の所有権をめぐって八代町と争ったが,当村の敗訴に終わった。同22年市制町村制施行による阿村となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7449856
最終更新日:2009-03-01




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