ケータイ辞書JLogosロゴ 伊倉南方村(近世)


熊本県>玉名市

 江戸期〜明治22年の村名。玉名郡のうち。天正15年8月28日の佐々成政黒印状写(内田文書/県史料中世2)によれば,「いくら南方」のうち浜・横島を除く75町などを山之上三名字中に宛行っており,同年9月17日の伊口意心知行宛行状写(同前)にはこの内訳が記され,61町2反半は「南方卅八町分」で,このうち10町6反が畠地,14町4反は「南九町分」で,このうち2町6反が畠地であった。同年10月朔日の佐々成政黒印状(同前)によれば,山之上三名字衆への加増分として「南方おきな丸」「南方おのしり」など田地16町・畠地8町1反4丈が宛行われている。熊本藩領。村高は,「寛永郷帳」2,775石余,「正保郷帳」も同高でうち田1,973石余・畠802石余,「天保郷帳」2,965石余。「旧高旧領」974石余。当村から分村した宮原村・野部田村・竹崎村・部田見村・片諏訪村・青野村・尾田村・立花村および桜井村は,「肥後国誌」で村名の肩書きに「南方村ノ内」と書かれている。このほか当村の伊倉南八幡宮の節頭を勤める村に桃田村・千田川原村・立山村・小野尻村があり,これらの村々が広義の伊倉南方村のうちであったと考えられる。「寛永郷帳」は,天正検地の写と考えられる慶長9年9月付の検地帳(県立図書館蔵文書)と同じ村名・石高を記載しているとみられるが,当村の村高は2,775石余とあり,さきの村々のうち宮原村から桜井村までの記載がなく,これが天正年間の当村の範囲と考えられる。慶長9年2月の検地帳の目録(同前)には,桜井村・野辺田村・竹崎村・片諏訪村・青野村のものはあるが,当村のものは残っていない。寛永12年の地撫帳(同前)には伊倉孫左衛門手永桜井本村の名が見え,「肥後国誌」では小田手永に属し,高245石余,「里俗桜井本村ト云」とあり,小村に堀川が見える。同書によれば,桜井村は,高461石余,小村に船津が見え,高のうち153石余は牟田であり,神社は平船津大明神社,桜井町は高248石余。同書の東北帳村の項の伊倉丹倍津の記事には,元和年間以前唐船の着岸していた所は桜井村のうち船津村であったとある。宝暦12年の見図帳(同前)では桜井村・上桜井村・桜井町に分化している。寛政10年の小田手永略手鑑(多田隈文書)によると,当村の高245石余,竈数11。幕末には林桜園の国学塾や,木下国均・竹崎茶堂・竹添井々らの私塾明善堂などがあり,文教の中心地であった。熊本県,白川県を経て,明治9年熊本県に所属。「郡村誌」によれば,田112町1反余・畑4町8反余,戸数126・人数721,牛3・馬33,物産は穀類のほか櫨実・素麺・麹・清酒・醤油・味噌・種子油など,民業は農業53戸・大工職8戸・素麺職6戸・穀物屋4戸など。同22年伊倉村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7449923
最終更新日:2009-03-01




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