ケータイ辞書JLogosロゴ 石間伏村(近世)


熊本県>芦北町

江戸期〜明治8年の村名葦北郡のうち湯の浦川の水源地に位置する豊臣秀吉が九州仕置の折に当地で鹿狩を楽しみ,その時,2間ほどの大石に身を伏せて鹿狩したことから間伏せと呼ばれ,それが石間伏という村名になったという(肥後国誌)熊本藩領村高は「旧高旧領」13石余寛永16年の芦北郡地侍御知行割帳(徳富家文書)に,当村の地侍に緒方助之丞の名が見える「肥後国誌」によれば湯浦手永に属し,高13石余,地蔵堂が記されるなお延宝3年の芦北郡湯浦手永小村限御帳(岩崎家文書/芦北町誌)では,御郡筒・百姓とも人数10,竈数1,牛1熊本県,八代【やつしろ】県を経て,明治6年白川県に所属同8年古石村の一部となる
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7449981
最終更新日:2009-03-01




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