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- 泉荘(中世)とは
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![]() | 泉荘(中世) 鎌倉期~戦国期に見える荘園名 |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 泉荘(中世) 鎌倉期に見える荘園名備後国恵蘇郡のうち承元5年閏正月日の備後泉荘田所職補任下文写に「下泉御庄内河北并泉村沙汰人等」と見え,荘内の沙汰人に対し,僧安慶を田所職に補任する旨を申し下している正応3年5月6日の源景頼着到状には「泉庄踊喜村地頭尼詣阿子息六郎景頼」が見え,文和2年5月には3通の尼れうゑん譲状によって当荘内踊喜村の田畠が惣領又四郎・次男十郎・女子にそれぞれ譲渡されている現口和町の向泉について,「芸藩通志」に「旧は涌村,又は泉村とのみも称せり」とあり,現口和町湯木・向泉が荘域と推定されるなお元徳2年9月3日の貞宗奉御教書写によれば,「踊喜村内池酒并田所職」などが長井又三郎の充文にまかせて踊喜六郎次郎入道に安堵されていることから,当荘の領有には備後守護長井氏と踊喜氏が関わっていたことが知られる(毛利家文書)踊喜氏は釜峰山に居城を構えていた武士で,戦国期には湯木(涌喜)三郎則重が勢力を有し,隣接する延暦寺領泉田荘へも進出をはかっており,延徳年間には山内氏・三吉氏と涌喜氏の間で紛争が続き,山内豊成は釜峰山城を攻撃している天文22年5月竹地谷川を挟んで毛利・尼子両軍が戦った泉合戦では,涌喜氏は山内氏とともに尼子方であった釜峰山南西麓の岩根に涌喜則重のものと伝える五輪墓があるまた戦国期には大月に泉氏があり,黒岩山城跡は泉久勝から久正まで3代の居城であったという(芸藩通志)「西備名区」には信正・信行・久正の3代とあり,2代信行は毛利氏に属した泉氏の墓について「芸藩通志」に「泉三郎左衛門久正墓 大月村光禅寺谷にあり,碑に文字なし,今,松岳院に牌子あり,前泉州太守春林玄勝大居士と記す,是黒岩山の城主なり」とある... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 泉荘(中世) 南北朝期~室町期に見える荘園名駿河【するが】国のうち元弘3年から建武2年頃の間に作成されたとされる足利尊氏・同直義所領目録に「駿河国泉庄〈同(泰家)〉」とあるのが初見(比志島文書/神奈川県史資料編3)当荘は鎌倉期は北条泰家の所領であったが,幕府滅亡とともに闕所地となり,足利氏領となっている次に,応永7年3月9日の足利義満御判御教書および応永19年5月24日の足利義持御判御教書によれば,駿河国長慶寺(現藤枝市)領として当荘の名が見える(今川家古文章写/駿河の今川氏)下って文明3年6月14日の今川義忠判物写によれば,由比勘解由左衛門尉に対して義忠から「和泉庄内八幡神主職并神田同八幡原関壱所〈人別五文充〉」が充行われている(御感状之写并書翰上)さらに大永3年11月21日の由比光規譲状によれば,同地は子息寅寿丸に譲られている(同前)比定地は未詳「荘園志料」は「駿国雑志」の説に基づいて現在の富士宮市大字北山付近に比定するが,その根拠は薄弱なお,駿東【すんとう】郡に戦国期から泉郷が見え,泉郷所在地に比定される現在の清水町内には八幡の大字があり,地内には泉郷の総鎮守といわれる八幡宮があり,旧泉郷内の柿田村は由比河内守の知行地といわれることから,「御感状之写并書翰」に見える「和泉庄内八幡」は,清水町大字八幡の八幡宮のこととも考えられる... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」