ケータイ辞書JLogosロゴ 板井(中世)


熊本県>七城町

 南北朝期から見える地名。合志【こうし】郡のうち。康永3年11月12日の少弐頼尚奉書(相良家文書/大日古5‐1)に「肥後国板井城警固事」と見え,当地にあった板井城の警固を翌年2月1日から3月晦日まで勤めるよう相良八郎に命じている。この城は亀尾城ともいい,現在碧巌寺裏の山上にその跡が残る。観応3年12月日の伊東氏祐軍忠状(伊東家古文状/大日料6‐15)には「八月八日,礼部御発向御共仕……其後志々木,板井原,令南郡御共,隈本在陣仕,御帰陣之時,又板井原・山鹿御共申訖……詫摩原九月廿九日御合戦抽戦功,後板井原・水島・菊地(池)御勢仕,同筑後国田刑致御共警固畢」と見え,足利直冬の証判があり,観応2年8月8日直冬の将某は伊東氏祐らを率いて肥後に入り,白木原で戦い,次いで志々岐,板井原を経て隈本に在陣し,9月29日板井原・山鹿を経て帰陣している。下って,永和3年9月日の松浦大島隼人允政軍忠状(来島文書/長崎県史古代中世編)には,「右,去六月馳参肥後国志々木原御陣致宿直,大水山関御合戦落居之刻,板井・合志・菊池以下御勢使并隈本城改御陣」とあり,当地を本拠とする板井氏などは南朝方であった。また永和4年2月日の深堀時勝代時澄軍忠状(深堀文書/県史料中世5)にも「九月朔日参陣仕,肥後国板井・菊池御勢使御共申并令致山鹿之警固」,同年3月日の安芸大朝荘庶子千鶴丸代須藤景平軍忠状(吉川家文書/大日古9‐2)に「去永和三年八月廿五日,馳参肥後国板井原御陣以来,於所々致軍忠之条」,同年8月日の安芸大朝荘一分地頭虎熊丸代市原経顕軍忠状(同前)に「右,去永和三年八月廿五日,馳参肥後国板井原之御陣」,康暦元年9月日の熊谷宗直代同道忍軍忠状(熊谷家文書/大友史料8)に「今年〈永和五〉二月……平尾・板井両城令追落」,同年10月日の橘大崎公次軍忠状(小鹿島文書/同前)にも「同(8月)十八日板井参御陣」,永徳元年7月日の深堀時久軍忠状(深堀文書/県史料中世5)にも「去々年〈康暦元〉……同(8月)十八日,同国板井原御陣御共仕……次去年〈康暦二〉八月十日,馳参板井原致宿直」,同年月日の橘公安軍忠状(小鹿島文書/菊池郡誌)にも「去自三月板井御陣参以来」,至徳元年9月日の安富了心(直安)軍忠状(深江文書/県史料中世5)にも「一,肥後国志々木原・板井……に下於在々所々御陣,致忠節」,明徳4年10月日の松浦波多祝女子源氏代定慶言上状(有浦文書/大日料7‐1)にも「於肥後国板井原御陣」などとあり,当地は交通の要衝として合戦の場となることが多かったことが知られる。下って天文4年の年紀のある年月日未詳の鹿子木親員知行目録(鹿子木文書/県史料中世1)に「乙未(天文4)之年……隈部御陣之時,四月於板井申理候」と見える。また神領所附并寺社方家中侍中名附(巌照寺文書/県史料中世1)所収の年月日未詳6月7日付の大津統秀寄進状写には「合志郡之内板井拾八町之内并御神領一町七反三畝之事,全以知行,社役本役等之事,無緩可被相懃者也」とあり,坂本六郎に当地の18町などの知行を認め,社役・本役を勤めるよう命じている。また鎌倉期と推定される年月日未詳の肥後国山北西安寺石堂碑文(相良家文書/大日古5‐1)に見える「同鎮西下向相良頼平 三男領地山北郷〈三十五町〉屋気村〈十二町〉板井村〈三十三丁〉」は当地とも推定されるが未詳。ただし,同碑文については検討の余地がある。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7449991
最終更新日:2009-03-01




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