ケータイ辞書JLogosロゴ 井手村(中世)


熊本県>荒尾市

 戦国期に見える村名。玉名郡野原荘西郷のうち。天文23年に書写され,以後書き継がれた野原八幡宮祭事簿(野原八幡宮文書/県史料中世1)に,「大行事ハ井手・万田・水島・倉満是四ケ村也……大行事井手ヨリ万田・水島〈ノ内平山〉・倉満〈次第々々ニ廻候〉」とあり,大行事は当村など4か村の定役で,当村から勤めることになっていた。同祭事簿の康元元年の項に「小行事〈井手船津太郎〉」と見え,野原荘の成立期か野原八幡宮勧請の時期には当地の集落が成立していたと考えられる。宝治元年6月23日小代重俊が野原荘の地頭職に補任され(小代文書/県史料中世1),次いで弘長2年野原荘の下地中分によって当地域は地頭方となり小代氏の支配下に置かれた。同祭事簿の元亨2年の項には「宮方大行事〈惣領方井手乙丸,雖当倉光方,依有相論,自惣領被勤畢〉」,また正中2年項には「国方大行事惣領分井手毛田次郎」と記され,小代氏の惣領の所領となったものと思われる。同祭事簿によると,村名で見えるのは,文安5年の項に「いての村ふちの二郎丸」とあるを初見とするが,一般的に村名をつけて呼称したのは戦国期の天文元年以降のようである。大永5年の項には「下井手二郎丸」とあり,上・下に分かれていたことが知られる。戦国期になると,同祭事簿の明応4年の項に「大行事井手のつけはる(付原)及中尾殿」と記すように,殿の名前をもつ給人が存在するような屋敷も出現した。永正10年からは大行事役とともに「はたの御祭」を勤仕した。大永5年には万田・宮内【くない】村とともに新的の板1枚を提供している。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7450061
最終更新日:2009-03-01




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