ケータイ辞書JLogosロゴ 井牟田村(近世)


熊本県>清和村

 江戸期〜明治22年の村名。上益城【かみましき】郡のうち。井無田村とも書く。熊本藩領。村高は,「寛永郷帳」121石余,「正保郷帳」も同高でうち田66石余・畠54石余,「天保郷帳」も121石余,「旧高旧領」188石余。「肥後国誌」では矢部手永に属し,高186石余,旧称を飯蓋村といい,小村に鬼山村・谷頭村・清畠村・窒村が見える。文政8年頃の益城上郡手鑑によれば,高186石余,反別は田5町余・畑6町余,年貢率2割余,家数28・人数145うち男73・女72,牛66・馬61,庄屋は江野原村と同じく藤岡新次(綾部家旧蔵文書)。社寺は,「国郡一統志」に御釜大明神・地蔵・不動・毘沙門・六地蔵が記される。文政元年頃の肥後藩手永別村名(永青文庫)には小村に鬼山村・清住村・谷頭村が見える。安政4年の矢部手永手鑑(肥後国郷村明細帳2)によると,高186石余,年貢率2割余,反別は田5町余・畑1反余・苅畑6町余,庄屋は用右衛門。熊本県,白川県を経て,明治9年熊本県に所属。「郡村誌」によれば,田18町3反余・畑74町9反余,戸数37・人数160,牛59・馬73,水車1,用水は釜蓋溜池を利用,字萩迫に人民共立小学校があり,生徒数は男74・女17,物産は米・野稲米・大豆・小豆・粱・芋・煙草など,民業は農業34戸・大工職1戸・水車職1戸。小学校は当初川口村にあったが,ほどなく当地に移転し井無田小学校と称した。明治22年朝日村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7450138
最終更新日:2009-03-01




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