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- 岩下(中世)とは
「岩下(中世)」の関連ワード⇒ 赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世)
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岩下(中世) 南北朝期から見える地名薩摩国入来【いりき】院のうち延文5年2月9日の渋谷重名譲状に「一たん ゆわした」と見え,重名から道賢に譲られ,道賢は当地を応永2年8月3日の譲状で竹王丸に譲っている(入来文書)下って,長享年間頃の作成とみられる山之手手持分帳には,「岩下之門……定田数一町八反 与田三反」が見え,入来院氏の直轄在家として把握されている(同前)市比野川と入来川の合流点左岸地帯,樋脇町塔之原内の岩下尻に当たり,西隣地上之原の東麓地区である |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
岩下(中世) 室町期に見える地名豊後国玖珠【くす】郡飯田【はんだ】郷のうち比定地未詳であるが,現在の玖珠郡九重【ここのえ】町大字後野上の小字に岩下があるのがそれとすれば,豊後中村の東南方約5kmの桐木付近で,鹿伏【かぶし】岳西北の玖珠川支流の谷間であろう永享8年9月26日の野上殿知行分目録(野上文書/大友史料10)に,「一所いわ下六段 藤六屋敷 堤の内」とあるのが初見で,最後わずか6反の小所で,屋敷1所があり,野上氏の所領であった... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
岩下(中世) 鎌倉期に見える地名豊後国大野郡大野荘志賀村南方のうち大野川の支流平井川の谷で,同川の北岸地名は岩の下にあったことによるか正和5年正月29日の大野荘志賀村南方中分惣堺越田堺注文に「〈岩下〉一所 半廿歩,〈東西北限東方⊏⊐(并平井)南限谷河〉」とあるのが唯一の史料(志賀文書/大友史料4)... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」