ケータイ辞書JLogosロゴ 岩原(中世)


熊本県>鹿央町

 南北朝期〜戦国期に見える地名。山鹿郡のうち。建武4年2月3日の荒木家有軍忠状(筑後近藤文書/南北朝遺838)に「依菊池武敏以下凶徒蜂起,去月十二日筑後国府於自御下向,同国御家人荒木弥六家有付肥後国岩原御著到,迄于同廿七日致警固之候畢」とあり,菊池武敏を攻めるべく九州探題(一色道猷)方が当地に陣を敷いたことが知られる。なお翌建武5年9月23日宇都宮範綱は「重代相伝私領」として「岩原内十町」を「かう二郎丸」に譲与しており(詫摩文書/県史料中世5),足利方優勢の時点では,宇都宮氏が当地の一部を領有していた。下って応安3年11月12日の室町幕府下知状(小代文書/県史料中世1)によれば,「可令早小代八郎次郎詮重領知肥後国岩原村〈岩原孫七跡〉事」とあり,勲功賞として小代詮重に宛行われている。その後嘉慶2年11月3日足利義満は小代広行に当村などを安堵しているが(同前),一時大野伊勢守の所領となったらしく,応永8年6月日,義満は「大野伊勢守跡〈伊倉庄・野原庄・小原村・岩原村〉」などを小代広行に領掌させ(同前),応永17年12月3日には足利義持が当村などを広行に安堵している(同前)。一方,応安8年正月日の山内通忠軍忠状(山内首藤家文書/大日古15),応安8年2月日の田原氏能軍忠状(入江文書/大分県史料10)によれば,応安5年征西府が落ち,同7年暮には今川了俊・同仲秋は菊池武朝を攻めるべく肥後に進入し,15日当地に陣した。南北朝末期に書かれた佐賀県玉林寺現蔵の大般若経553巻の奥書には,「肥後国山鹿郡南庄岩原目野山満光寺本堂之大般若経」とある。岩原・目野一帯が大方は山鹿南荘域のなかであるとみなされていたことがわかるが,宇佐宮領石原別符との地域的区分は不明。戦国期となり,享禄年間から天文初年頃と推定される角田右衛門尉宛の菊池義宗知行坪付(津野田文書/県史料中世3)のなかに「〈岩原之内大町分〉一所 五町」が見える。上岩原西方に古城・高城とも呼ばれる岩原城跡があり,「肥後国誌」は城主を有働式部少輔とも有働右近とも伝える。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7450187
最終更新日:2009-03-01




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