ケータイ辞書JLogosロゴ 上村(中世)


熊本県>上村

 鎌倉期〜戦国期に見える村名。球磨郡人吉荘のうち。文永8年6月日の人吉願成寺檜皮用途日記(願成寺文書/県史料中世3)に「一,上むら 二十丁」と見え,「田別ニせに六文」が徴収されているほか,「上村田代二十(一脱カ)丁八反四丈内〈本(田)四十丁,新田十丁八反四丈,寺田丁〉」とある。なお,「南藤蔓綿録」所収の上村氏系図などによると,相良長頼の子頼村が上村四郎を名乗り,上村を領したという。暦応2年8月5日の相良蓮道(長氏)譲状(相良家文書/大日古5‐1)に「一所,うゑむらミやう」が見え,人吉荘北方の上村名などが嫡孫兵庫允定頼に譲渡されている。なお南北朝期と推定される年月日未詳の相良定頼并一族等所領注文(同前)には「久米郷西方上村」と見えるが,当地にあたるかは未詳。文安5年の年紀のある年月日未詳の犬童重国軍忠状案(犬童文書/県史料中世4)によれば,文安5年5月に「北原左京助……数多之軍兵寄来上村之城」とある。「八代日記」天文21年8月14日条に「岡本相模守方於上村御成敗」と見え,上村頼興が岡本頼春を殺害している。同書弘治3年5月19日条に「上村雑説ニ依テ上村地下在城」,同30日条に「人吉上村之儀ニ雑説」,同6月2日条に「人吉上村主馬允方・同左近允方如上村退出候」,同3日条に「人吉より上村ニ動候」,同4日条に「上村ニ動候」,同5日条に「人吉ヨリ上村動之注進,八代ニ未刻到来候」,同9日条に「上村帯刀允方成敗」,同12日条に「頼堅生害」,同28日条に「人吉ヨリ上村動候」,同7月9日条に「人吉ヨリ上村に動候」,同8月14日条に「上村馬場破候」,同9月10日条に「上村ニ被遣候」,同20日条に「上村落去,戌刻頼吉(上村頼孝)真幸ノコトク」などと見える。これは,同年2月の上村頼興の死去を契機に頼興の3子頼孝・頼堅・長蔵が当主相良義陽の幼少を理由に相良氏領を三分割して領有しようとしたことから滅亡に至る一連の事件を記したものである。永禄7年4月28日の相良氏将軍家使僧迎接日記(相良家文書/大日古5‐1)に「一,〈よしてる様御使〉桜本坊御下着候,上村ヨリ一分茂林寺迄御下候」と見える。「上井覚兼日記」天正2年10月5日条によれば,菱苅重広に野心のうわさがあり,島津義弘が「上村」を通過したとき矢を射かけたという(古記録)。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7450193
最終更新日:2009-03-01




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