上島郷(中世)
鎌倉期〜戦国期に見える郷名。託麻郡六箇荘のうち。延慶3年10月9日のさいれん譲状(阿蘇文書/大日古13‐1)に「うへしまのふん」と見えるが,当地にあたるかは未詳。嘉暦元年11月18日の肥後上島郷地頭尼妙法同子息義広連署和与状(同前)に「上島郷地頭尼妙法」とあるのが初見。この和与状および同年12月5日の鎮西探題下知状(同前)によれば,尼妙法・弁房義広と上島惟幸との間に当郷の惣領職および別分・勲功地などをめぐって相論が続いていたが,当郷内の田地石代5反,出納町5反,36坪5反の計1町5反,土器次郎屋敷・外畠2反・西原内畠5反を惟幸方に去り与えることで和与が成立している。下って正平2年9月20日の恵良惟澄官軍恩賞所望交名并闕所地注文案写(同前)には「一,上島彦八郎惟頼申,本領肥後国六ケ庄内石津村地頭職・上島郷地頭職并一族等跡事」とあり,上島惟頼は南朝方に与同し,当郷などの地頭職の安堵を懇望している。文亀3年12月19日の菊池氏老中連署状(同前)には「上島半分」と見える。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7450206
最終更新日:2009-03-01