ケータイ辞書JLogosロゴ 上島村(近世)


熊本県>嘉島町

 江戸期〜明治22年の村名。上益城郡のうち。熊本藩領。慶長6年10月30日の加藤清正宛行知行目録(庄林文書/県史料中世5)では,当村のうち294石5斗が中川太郎平に宛行われている。村高は,「寛永郷帳」1,738石余,「正保郷帳」も同高でうち田1,049石余・畠689石余,「天保郷帳」1,921石余。「旧高旧領」1,232石余。「肥後国誌」では鯰手永に属し,高2,241石余,当村は東上島・西上島からなり,小村に下中淵が見え,緑川に千原への上島渡瀬があり,社寺は四社大明神宮・胡蝶宮・天神社2・天台宗平等寺。江戸末期に西上島村を分村。文政8年頃の益城上郡手鑑によれば,西上島村を除き,高1,123石余,反別は田61町余・畑19町余,家数94・人数425,馬71(綾部家旧蔵文書)。「肥集録」には「東西上島村」として見え(肥後国地誌集),西上島村に対して,当村を東上島村とも称したと思われる。地内各地に散在する碧神社・若宮神社・北岡神社・阿蘇三之宮を明治11年に合祠して四所神社と称し,氏神としたという(上益城郡誌)。字蔵園の浄土真宗本願寺派善宗寺はもと隈庄町雲晴寺のなかの一庵に始まるといい(同前),明治12年当地に移り寺号の公称を許可された。平等寺は,小西行長が領主の時断絶したという(同前)。当地は,江戸期は日向街道が通り,森崎橋付近には,水車小屋や上島茶店があり上島町と呼ばれた。この上島茶屋は,はじめは御船川と緑川の合流する所に5,6軒あったが,享保年間頃洪水で流失し,その後移転したといわれ,その位置は堤防下の用水路より北にあったとも,四所神社の南ともいわれる。上島渡しは豊秋方面の甲佐などへの通行に利用され,当地は交通の要所であった(熊本の街道と峠)。天保年間には加藤寿通が当村で家塾を開業している。地内のろうそく田は,万治年間に禅門という吝嗇家が仏前のろうそく代を惜しんで蓄えた金で購入した田地という(上益城郡誌)。熊本県,白川県を経て,明治9年熊本県に所属。同年西上島村を合併。明治7年字蔵園に人民共立小学校が設置され,同11年の生徒数は男46・女3(肥後読史総覧)。当地は水害が多く,同15年には御船川堤防が破損するなどした(上益城郡誌)。「郡村誌」によれば,田169町7反余・畑32町8反余,戸数185・人数912,馬133,日本形船22うち50石未満荷船5・漁船17,水車2,物産は穀類のほか清酒・上島丸薬など,民業は農業183戸・造酒職2戸など。同22年市制町村制施行による上島村となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7450207
最終更新日:2009-03-01




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