ケータイ辞書JLogosロゴ 内田村(中世)


熊本県>菊鹿町

 鎌倉期に見える村名。山鹿郡のうち。覚書風の鎌倉期と推定される年月日未詳の肥後国山北西安寺石堂碑文(相良家文書/大日古5-1)に相良宗頼の所領として「山鹿郡十三町内田村〈六丁〉・杉村〈十二町〉」とあるのが初見であるが,同碑文には検討の余地がある。江戸期当村の小村となる山井村については,同碑文に「二男(宗頼)〈一丁〉山井村」とあり,また寛元元年2月23日の関東下知状(同前)に「泉新荘内山井名」と見え,相良宗頼の所領であった。現在の菊鹿町下内田および長の字長谷一帯に比定される。なお下内田宮の本には内田八幡宮があり,「肥後国誌」によると12世紀前半菊池経直の勧請で神領15町5反を寄せ,のち隈部忠直が高橋村5町5反,隈部親永が内田村・永野村に3町8反を寄附したという。なお,江戸期の上内田村の小村に見える小田村については,戦国期の年未詳11月14日付の城政冬隈部重直連署書状(五条家文書/纂集)に「小田八丁」とあり,五条氏が当地など当知行地25町を池辺25町と替えたい旨申請し,了承されており,また年未詳6月11日付の五条家知行分坪付(同前)には「〈山鹿郡〉一所 小田八町」とある。江戸期に上内田村・下内田村が見え,現在の菊鹿町上内田から下内田にかけての一帯に比定される。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7450269
最終更新日:2009-03-01




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