ケータイ辞書JLogosロゴ 網田村(中世)


熊本県>宇土市

 南北朝期〜室町期に見える村名。宇土郡郡浦【こおのうら】荘のうち。地名としては,興国2年10月28日の北坂梨(阿蘇品)惟定申状案(阿蘇文書/大日古13‐1)に「郡浦案越田徳用名」,同年11月日の同申状案(同前)に「あをたのとくもち名」などと見える。南北朝期と推定される年月日未詳の肥後郡浦庄田地注文(同前)に「あふたのむらの分」とあり,合わせて2町5反3丈の給田が記されている。応永11年10月10日の肥後郡浦庄地検帳(同前)には,「一,網田村」と見え,「松石小松三郎二郎給 得用跡」以下給地が記されている。それらはいずれも網田里・網田東里・網田西里・網田南里・網田北里・島野里・島野南里・赤瀬里のうちのいずれかに存したことが知られる。このうち,網田里については字サウ原(サウハル)・宮ノ後・カリキ・ヒヤケ・栗林・柳原・カウコ崎(カウコサキ)・河原田・うわはる(上原)などの地名が現存する。また網田東里については字寺床・仮井河・早馬など,網田西里については字早原・桑鶴・西原,網田南里については字木藤三,網田北里については字小松・仮井川・田平が残る。島野里については比定地は明確ではないが,近世の「国郡一統志」には「島野城」が見え,現在の下網田にも字島辻がある。なお前記検地帳によれば,「寺田分」として,網田里に常楽寺敷地,網田北里に「神宮寺免網田社得用」,網田南里に長福寺免が存在したことが知られる。また「神田分」として,網田里に「網田宮九月九日御祭田」「網田宮御供田」,網田南里に「網田宮御供田」が置かれるなど,各種の給免田が設定されている。戦国期の「長谷場越前自記」(旧記雑録後編1)には城名として「青田の城」「青田之城」などと見える。「上井覚兼日記」天正10年11月22日条によれば,阿蘇惟将の将甲斐親直が島津氏に和を請うたことが知られるが,「彼方より網田,郡浦,甲斐頭,小川,此等之神領被返下候ハゝ,無事たるへき由申候也」とあり,当地などを返すことが条件とされている(古記録)。なお,これ以前の天正9年頃のものと推定される竜造寺隆信覚書(竜造寺文書/県史料中世5)には「一,網田・郡浦之事〈付伯耆殿(顕孝)依御当介 親賢御覚悟之事〉」と見える。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7450403
最終更新日:2009-03-01




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