ケータイ辞書JLogosロゴ 大島村(近世)


熊本県>荒尾市

 江戸期〜明治22年の村名。玉名郡のうち。熊本藩領。村高は,「寛永郷帳」234石余,「正保郷帳」も同高でうち田168石余・畠66石余,「天保郷帳」も234石余,「旧高旧領」484石余。「肥後国誌」によれば荒尾手永に属し,高475石余。筑後との国境に近く,街道筋に位置するため,在町的な扱いを受け,同書にも「里俗大島町ト云,府ヨリ十一里,高瀬町ヨリ五里」と見え,南の溝口から北の溝口まで3町51間,竈数75,高札場のほか大島浦上番所・大島浦遠見番所が置かれていたとある。文政7年の荒尾手永手鑑(山本家文書)によれば,竈数95・人数351,商札8,廻船6・漁船1,質屋3・揚酒屋1。幕末,打ち続く凶作によって多くの人々が食料に苦しんだため,嘉永7年荒尾手永は当村四ツ山の南すそから南の大島海岸まで距離8町余,反別6町6反余の干拓を訴願して許可され,同年および安政2年の2度にわたって干拓が行われた。なお干拓地はその後台風などによって破壊されたため,明治9年官金借入あるいは郷金をもって27町を再築したという(郡村誌)。寺院は,寛文5年の開基と伝える真宗大谷派専行寺。また習字を教える本田栄吉の私塾が幕末に開かれ,明治5年廃業となった(管内実態調査書)。熊本県,白川県を経て,明治9年熊本県に所属。「郡村誌」によれば,田16町7反余・畑36町5反余,戸数119・人数611,馬55,日本形船25うち200石未満50石以上3・漁船22,字上町に人民共立小学校があり,生徒数は男19・女3,物産は穀類のほか甘藷・櫨実・生糸・江鮒・章魚・乳貝・白灰など,民業は農業102戸・旅籠屋1戸・小間物屋2戸など。同22年荒尾村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7450457
最終更新日:2009-03-01




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