ケータイ辞書JLogosロゴ 太田村(近世)


熊本県>菊鹿町

 江戸期〜明治22年の村名。山鹿郡のうち。熊本藩領。村高は「旧高旧領」209石余。「肥後国誌」によれば中村手永に属し,高290石余,小村に本村・灰塚村など,社寺に氏神八幡宮・天神社・浄土真宗西派西教寺・観音堂が見える。村名は宝暦2年の中村手永御蔵納手鑑(肥後藩の農業構造)に上内田村の枝村として見え,御藪2町8反余も見える。また宝暦13年の田畑下名寄御帳(県立図書館蔵文書)では,高209石余,小村に丁ノ坪・長谷原・篠ノ迫・寺村・竈・柳迫・市井迫・中ノ村・みゝとりがあり,田畑総反別20町6反余。安政年間には米・粟・麦類・大豆・小豆・蕎麦・大根・唐芋を生産,芋は畔端や山蔭など穀類のできない所で作り,麻はまだ特に植栽はなかった。なお鷹取峠付近では1,000頭に及ぶ馬が放飼いされていた(肥後国誌)。熊本県,白川県を経て,明治9年熊本県に所属。「郡村誌」によれば,田18町5反余・畑25町3反余,戸数47・人数214,馬39,物産は穀類のほか甘藷・蘿蔔・櫨実・薪など,民業は農業39戸・大工職1戸など。文久元年〜明治6年に吉山茲長の寺子屋があり,算術習字を教授した。また明治中頃まで日渡との境に竜前寺があり,寺子屋があったが,現在同寺はなく,墓地が残る(菊鹿町文化財誌)。明治22年の田畑43町8反余・宅地2町7反余,戸数47・人口228(県公文類纂/県立図書館蔵文書)。同年六郷村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7450474
最終更新日:2009-03-01




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