ケータイ辞書JLogosロゴ 大野別符(中世)


熊本県>岱明町

 鎌倉期〜戦国期に見える別符名。玉名郡のうち。荘園名でも見える。貞応3年5月21日の関東下文案(詫摩文書/県史料中世5)に「大野別符内尾崎村」とあるのが初見。成立時期やその経緯については不明であるが,弘治3年3月吉日の紀宗善大野家由緒書上(清源寺文書/県史料中世1)によれば,八幡別当紀国隆(清源)が建久4年4月2日に関東御教書を得て,「肥後国玉名郡内大野二百五十町」を宛行われて下向し,中尾高岡居屋敷に居を構えたという。しかし,紀氏は仁治2年6月日の肥後国留守所下文(寿福寺文書/同前)に「郡司紀(花押)」として連署しているので,郡司の系統をひく在地領主であった可能性が強く,鎌倉期になって地頭職に補任されたものとみられる。弘長元年8月1日の紀有隆証文請取状(深江文書/県史料中世5)には,「大のゝしたいせうもんうけとる事」のなかに「一,けむきう四年の御下文 二つう」とあり,建久4年に補任された可能性が強いので,当別符の成立もそれ以前と思われ,12世紀はじめ頃の成立と考えられる。当別符の鎮守繁根木八幡宮は,社伝によると,応和元年村上天皇の勅願により紀国隆が石清水八幡宮を勧請し,大野郷250町の鎮守としたと伝える。また当別符が筑前国筥崎宮領であったことは,嘉禎3年5月日の宗清・教清連署処分状案(石清水文書/鎌遺5141)に「大野別符〈筥崎宮領〉」とあることで確認される。この処分状は当別符などが石清水検校兼筥崎宮検校法印宗清から子息の修理別当行清に譲られたもので,「至于大野別符・那珂西郷者,及子々孫々無異論,可門跡相伝也」と見え,門跡相伝地であり,当別符は石清水八幡宮を本家とする筥崎宮領であった。前記の紀宗善大野家由緒書上によれば,紀国隆が大野250町を宛行われ,これを子息3人に分与し,子女5人を中尾・山田・岩崎・尾崎・河崎の5家に入婿させ,子息3人の子孫とともに大野八名衆となったと記している。子息のうち嫡子中村時隆には高瀬中村55町,次男築地三郎国秀には築地55町,三男大野三郎秀隆には居屋敷55町を分割知行させている。このように当別符は大野一族の一円支配に置かれていたと伝えられるが,この由緒書上の内容は検討を要する。前記貞応3年の関東下文案では,「尾崎村」は詫磨氏領となっており,弘長2年8月30日の詫磨能秀譲状案(詫摩文書/県史料中世5)では,「大野別符中尾崎名内南尾崎名」が子息直秀に譲与されている。さらに下って,応永14年7月日の神倉荘・鹿子木東荘等名々注文(同前)にも「一,同国玉名郡内 大野別符尾崎村〈南北〉」とあり,室町期に至るまで尾崎村は詫磨氏に相伝されていたことが知られる。一方,嘉元3年7月9日の関東下知状(深江文書/県史料中世5)によれば,「肥後国大野別符内岩崎村〈瑠璃童女跡〉」が安富左近将監頼泰に安堵されており,正和4年8月13日の安富頼泰所領譲状(同前)では,岩崎村の地頭職が与三郎貞泰に譲与されている。嘉暦2年5月26日の造宇佐弥勒寺米銭送状(同前)には「肥後国玉名郡大野別符岩崎村地頭安富左近将監知行田地拾町五反米銭」とあり,岩崎村の田地10町5反から,造宇佐弥勒寺米銭5貫250文のうち先納分2貫文を除く3貫250文が納められている。以降,岩崎村地頭職は元弘2年2月15日には安富貞泰から恩房丸に譲与され,南北朝期の正平14年7月2日には「ひこのくに大のゝへふのうち,いわさきのむらのてんはくやしきら」が,祖父頼泰以来の相伝の地として「とう女」に譲られた(同前)。同17年5月10日の征西将軍宮(懐良親王)令旨(同前)によれば,岩崎村地頭職の半分は恩賞として安富泰治女子(字童)に宛行われ,残り半分が料所として給人に付せられており,替地を宛行ったのち女子に返付される旨が記されている。のち,同25年2月21日になってこの岩崎村半分地頭職が返付されている(同前)。応安8年6月25日には「大野別符内いわさきのむらのちとうしき」などが尼禅慶から安富直泰の子息「せすとう丸」に譲与され,応永28年12月26日には,渋川義俊が「岩崎庄(ママ)」を安富泰清に安堵しており(同前),室町期に至るまで安富氏に相伝されていた。一方,元亨元年8月27日の4通の紀頼隆譲状(深江文書/県史料中世5)によれば,「肥後国たまなのさいかうおゝのゝへつふのうち,なへむらにし山田しはふんのちとうしき」を子息「いやわう丸」に,同じく「大野□□(へつ)ふくみ⊏⊐はたほのちとうしき」も子息弥王丸に譲っている。また同4年6月26日の紀しけたか・しやうれん連署譲状(詫摩文書/県史料中世5)によれば,「ついちむら」の田地屋敷などを「弥陀」に譲っている。以上のように,当別符内の諸村は,西部の尾崎村一帯が詫磨氏,中央部の岩崎村一帯が安富氏,西部の鍋村と西北部の築地村が紀氏の所領となっていたことが知られる。なお,鎌倉末期と推定される年未詳4月1日付の大友頼泰書状(同前)には「大野庄内上賀里塔(ママ)事,詫磨弥八入道本領候」と荘園名で見える。南北朝期になると,紀氏の勢力が急速に弱化したと推定され,その所領の公験となる文書が安富氏の手に渡っている。建武3年11月9日の良澄文書請取状(深江文書/県史料中世5)によれば,「請取 肥後国大野別符内大野小次郎弘隆知行分所領文書等事」として,文永13年12月23日の関東下文以下13通の文書が京都に進上され,深江領主安富泰重の挙状として代官良澄が請け取っている。おそらく大野弘隆の訴訟関係をとりもつ形で,安富泰重が推挙し,公験の文書を獲得したのであろう。また建武2年4月3日の菊池武吉寄進状写(阿蘇文書/大日古13‐2)および同年月日の菊池武吉寄進地坪付写(同前)によれば,「大野別符内中村田地拾弐町」を阿蘇御岳大明神御宝殿の恒例の三十講料として寄進している。次いで,貞和5年2月8日の壱岐守輔重(姓欠く)寄進状(清源寺文書/県史料中世1)では,「肥後国玉名郡大野庄内中村高瀬清源寺敷地」として「東限火神木堀長福寺,南限大道,西限堀底,北限田之岸」の地が寄進されている。下って正平9年4月4日にも菊池武尚が同敷地を寄進している(同前)。ほかに清源寺に寄進された所領としては,同14年6月1日の紀光隆寄進状(同前)の「大野別符岩崎村内〈前田六反〉」,応安8年3月16日の近江守平某寄進状(同前)の「大野別符中村内田地壱町」,天授2年10月2日の岩崎隆貞寄進状(同前)の「大野別符内岩崎村一分地頭池田式部省(ママ)隆貞重代相伝私領」である「岩崎中田」の田地1反,至徳3年2月6日の刑部少輔家長寄進状(同前)の「中村分」の田地2町5反などがある。紀氏の相伝の所領であった築地村については,建武5年3月7日の少弐頼尚知行預ケ状案(詫摩文書/県史料中世5)によれば,「上築地」などが兵粮料所として詫磨宗直の一族に預けられ,以後,詫磨氏の所領となったとみられ,康暦元年6月1日の詫磨寂祐譲状(同前)では「大野別符上ついちかりつかの村の田畠屋敷」などが詫磨別当五郎を養子として譲られており,至徳3年と推定される年未詳2月23日付の九州探題今川了俊書状(同前)でも,詫磨弥八入道の知行地であった「大野別符内築地狩塚庶子分」が詫磨親氏に沙汰付けされている。狩塚村については,応永12年7月18日の詫磨満親譲状(同前)に「大のゝしやうの内かりつか入道しやくゆうのあと」とあり,親家に譲与されており,詫磨氏の惣領家の相伝所領であったと思われる。一方,寿福寺に寄進された所領としては,正平13年2月9日の紀政幸寄進状案(寿福寺文書/県史料中世1)の「尾崎河原西」の1町1反,応永10年5月13日の大野朝隆寄進状(同前)の「大野別府河崎名内向津留不動堂免畠」があり,前者は詫磨氏の所領尾崎村に接して,境川の右岸一帯を紀氏が所領としていたものと推定され,後者の「河崎名」(川崎村)一帯も大野氏の所領となっていたのであろう。応永年間になると,中村(高瀬)にいた菊池高瀬氏が勢力を伸張させ,保木田に保木田城を構えている。応永17年11月8日の藤原(高瀬)武楯安堵状(同前)によれば,「大野別符中村内繁根木山寿福寺稲荷大明神」に修理田3町を寄進し,翌18年10月10日の高瀬武楯寄進状(清源寺文書/県史料中世1)によれば,「高瀬清源寺」に「中村内田地壱町壱段参丈」を寄進し,この両寺を高瀬氏の祈願寺としていた。一方,高瀬談議所については,応永16年4月7日の板倉宗寿寄進状(宝成就寺文書/県史料中世1)によれば,「肥後高瀬談義所平等王院」に「当寺門前屋敷〈両方〉坪付〈在別紙〉并稲佐村田地弐町等」を寄進し,同20年卯月2日の大神惟清寄進状案(同前)では,「東(限脱カ)通町お,西者限繁根木河お」という古道を談議所に寄附し,同年卯月3日の藤原(高瀬)武楯寄進状(同前)では,「肥後国玉名郡高瀬談義所宝成就寺門前屋敷弐ケ所并国中之中原屋敷」が談議所に寄進されている。筥崎宮領としての実態の知られるのは,前記正平14年6月1日の紀光隆寄進状で,「但於国衙庄方之済物者,随分限可有弁済候」とあり,この時点では領家済物が納められていたと思われるが,以降室町期など筥崎宮領としての実態は完全に消失したものと考えられる。下って,戦国期の天文9年2月1日の豪円譲状(寿福寺文書/県史料中世1)によれば,「肥後国大野之別府中村之内繁根木山院主職并当社役」が某(宛所不明)に譲られている。下って天正9年12月27日の竜造寺政家判物(小代文書/同前)によれば,「肥後国玉名郡之内大野之別符弐百町」が小代親伝に宛行われており,当時竜造寺氏の勢力下に置かれていたことが知られる。現在の玉名市のうち,旧高瀬町・旧弥富村・旧滑石村・旧築山村と現岱明【たいめい】町一帯に比定される。なお,織豊期の天正15年と推定される年未詳5月25日付の浅野長吉書状写(小代文書/県史料中世4)には「大野上村・下村」が見える。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7450517
最終更新日:2009-03-01




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