ケータイ辞書JLogosロゴ 大見村(中世)


熊本県>不知火町

 南北朝期に見える村名。宇土郡郡浦【こおのうら】荘のうち。南北朝期のものと推定される年月日未詳の肥後郡浦庄田地注文(阿蘇文書/大日古13‐1)に,「おゝミのむらの分 三丈 こさいくか跡 三丈 たか入道か跡 三丈 おとまろ 以上一反三丈」と見える。応永11年10月10日の肥後郡浦庄地検帳(同前)には,「公田分」のうちに「一,大見村 乙丸 政所給」とあり,「〈本〉大見一坪一段一丈」以下,1町2反余の坪付が記されている。このほか「公田分」のうちには,「愛王丸跡 徳介」「高入道跡」以下,多くに「大見」ないし「大見西り」などと見え,報恩寺・阿弥陀堂などの免田にあてられている。また「神田分」としても宣命免・彼岸免・大見宮免などに,「講経免分」としても年預免などに「大見」の地があてられている。室町初期と推定される年未詳の肥後郡浦庄地検帳写(阿蘇文書/大日古13‐2)に「一,乙丸〈本〉大見一坪一段一丈……見作田一町中 不作一反一丈」「一,高入道跡〈本〉大見一坪一反一丈〈報(恩)寺免〉……見作田一丁二段一丈 不作四丈」「一,小細工跡〈本〉大見二坪二反三丈内〈二反天神免〉……見作田五段 不作田四丈中」と見える。文明16年4月2日の阿蘇惟忠宛行状(蠧糧雑識/大日料8‐16)によれば,「郡浦大見之内おと丸,こさいく両所」を用瀬采女に宛行っている。なお建武元年10月日に注進された弘安10年の肥後郡浦庄名寄帳(阿蘇文書/大日古13‐1)には「⊐□(た)のむらの分」として「⊐〈代五十文〉こさへくか跡 一枚〈代二十五文〉たか入道跡」とあるが,これは当村のことと思われる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7450554
最終更新日:2009-03-01




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