ケータイ辞書JLogosロゴ 小河(中世)


熊本県>小川町

 鎌倉期から見える地名。八代郡のうち。建久6年3月日の甲佐社領立券解案(阿蘇文書/大日古13‐1)によれば,「八代北郷……北小河」の四至に「南限八代庄堺并小河堺」と見え,北小河に南接していたことが知られ,狭域ながら北小河・南小河とは別の独立した地域とみなされていたと推定される。しかし,一般的には南小河・北小河を包含する広域的地名として使用される場合が多かった。南北朝期の正平2年と推定される8月5日付の中院義定書状写(同前/大日古13‐2)には「小河の事」,同じく同年と推定される10月12日付の中院義定書状写(同前)には「をかハ」における合戦の用意のことが見え,正平3年9月日の恵良惟澄軍忠状(阿蘇文書/大日古13‐1)には,正平元年閏9月2日に「小河城下」で戦いがあったことが記されている。下って2通の同16年6月12日の菊池武光施行状写(同前/大日古13‐2),同年8月日の甲佐社牒写(同前)によれば,名和顕興が甲佐社領「小河両郷」を押領したため,征西将軍宮令旨を遵行するため,同年3月頃守護代因幡守武貫代・使節窪田越中孫次郎代官が当地に入部しようとしたが,名和顕興が異議を申したので,同年5月25日再び令旨が下され,7月20日,6月12日の施行を実行するため下向して社家に当地を打ち渡した。ところが,7月23日顕興の代官が多勢をもって雑掌・神人に乱暴を働いた。そこで9月5日,再び令旨が下されたが(同前),守護菊池武光は10月14日付の注進状を奉行所に提出し,守護代武貫が社家に下地を打ち渡そうとしたが,名和顕興が当地に要害を構えて打渡しを妨げたと訴えている(同前)。これに対し征西将軍宮は,10月23日令旨を下し,武光に要害を破却して下地を恵良惟澄に打ち渡すよう命じ(同前),同年11月7日に守護代・窪田武宗に宛てて施行状が下されている。なお,前記甲佐社牒写に見える「小河両郷」とは,室町期と推定される年月日未詳の甲佐社神田注文(阿蘇文書/大日古13‐1)に見える南・北両小河郷を指すものと考えられる。下って天授5年3月24日の聖璨実信連署請文(同前)によれば,「小河両御代官」に宛てて,守山荘の井料として「小河の□田地弐町」を渡し進めたことを伝えており,その坪付は「壱所しやうとくのそ□九段,同所ようさくまち壱段,一所ひられ石五段,一所かうつかりミて〈ひかしのより〉五段」であった。下って文明4年11月26日の阿蘇山本堂造営棟別料足請取日記写(阿蘇文書/大日古13‐2)には「勾野両小河之御使,福性々,瀬田周防守,彼両人より請取申候料足八貫百八十文」と見える。天文5年11月22日の沙弥洞然(相良長国)長状写(相良家文書/大日古5-1)によれば,文亀3年8月,阿蘇惟長父子が「小川」に在陣したという。「八代日記」天文6年5月22日条には「小河ヨリ至国中ニ大水」,同11年正月17日条に「小河・守山・小野前後ニ八代人数皆同打出候」,同12年8月3日条に「八代衆小河まて打出」,同年8月22日条に「小河合戦」などと見え,当地は合戦場となることが多かった。それは,同書同18年9月25日条によれば,28代遊行上人(遍円)が「隈本ヨリ木原ニヨリ小河々ヨリ八代ニ御着候」とあるように,当地が交通の要路にあたっていたためと考えられる。下って「上井覚兼日記」天正10年11月22日条によれば,甲斐親直は和を結ぶ条件として「網田・郡浦・甲斐頭・小川,此等之神領被返下候ハゝ,無事たるへき由」と要求したという(古記録)。また同書同12年9月9日条,10月24日条によれば,当時島津忠棟が当地に滞留していたことなどが知られる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7450605
最終更新日:2009-03-01




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