ケータイ辞書JLogosロゴ 小川町(近世)


熊本県>小川町

 江戸期〜明治22年の町名。下益城【しもましき】郡のうち。熊本藩領。村高は「旧高旧領」では「小川村」と見え34石余。「肥後国誌」では北小川村のうちと見える。加藤清正領となって本格的な町づくりが進められ,六斎市の許可を受け,海陸産物の集散地となり,小川商人が活躍した。その頃から道路は整理され,豊田―豊野―海東―小川の駅路と,松橋【まつばせ】―豊福―小野部田―小川へ抜ける道が開けた。寛永10年正式に町として認められた。当町は川尻・宇土【うと】・八代とともに宿町とされ,寛永15年には町の体裁を整えるため地子赦免(地租免除)を受け,参勤交代の島津氏・相良氏や八代城主が小川宿を利用した。元禄12年の釈迦院出開帳には,群衆でにぎわい,当時商人小屋30余軒が立ち並んだと記されている(小川町史)。慶長17年キリシタンのペトロキメヨリは財産没収のうえ,追放されている(同前)。馬場通り(小川阿蘇神社)に河江手永会所が置かれたほか,当町には在町奉行所が元禄年間に設置され(正徳2年廃止),高札所が当時当町の南の玄関といわれた中町にあり,肥後国中手鑑では宝暦7年の竈数120とある(小川町史)。江戸中期以降,船問屋や中売(問屋兼店売)が出現し,豪商柏原太郎左衛門が知られる。当町の西,砂川河口の住吉津口(のちの住吉村)は船舶の往来が盛んであったが,干拓の進行により津としての機能を失い,その経済的打撃は大きかった。北山雪山は書家で,「国郡一統志」の著者として知られ,詩人でもあり,肥後に在住中たびたび当町を訪れ,名物の蕎麦を食べた店である伊勢屋の看板も書いている。鎮守は小川阿蘇神社。寺院には浄土真宗西派正善寺・曹洞宗妙音寺・同宗徳本寺・法華宗円立寺がある。妙音寺は唐風の鐘樓,閻魔堂,南北朝期の宝篋印塔を有している。当町の社寺は小西氏の兵火にかかったと伝える。熊本県,八代県,白川県を経て,明治9年熊本県に所属。同22年小川町の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7450606
最終更新日:2009-03-01




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