ケータイ辞書JLogosロゴ 小国郷(中世)


熊本県>小国町

 南北朝期に見える郷名。阿蘇郡のうち。地名としては鎌倉期から見え,元徳2年2月23日の阿蘇社造営料木注文写(阿蘇文書/大日古13‐1)に「小国宮原六家内」とあり,当地内の「灰原」「北河内・室原・波津田〈三ケ村分〉」「江古尾・尻江田・荒倉・河野〈四ケ村分〉」「注連内」「秋原・田原・脇戸〈三ケ村分〉」「中務・垂水・赤浜・椎屋・下城〈五ケ村分〉」に各1本の料木が宛て課されている。また正慶元年9月2日の阿蘇社造営料釘等支配状写(同前)では,「小国廿四家分」として竹釘・葺縄などが宛て課されている。南北朝期の延元4年と推定される年未詳8月17日付の恵良惟澄宛五条頼元書状(同前/大日料6‐5)には「小国対治返々目出候」とあり,征西将軍宮懐良親王は恵良惟澄の当地における合戦を賞している。この合戦については,正平3年9月日の恵良惟澄軍忠状(同前/大日古13‐1)に「其後馳越日向堺,追落野尻城,相語高知尾一族等,打越小国郷,攻落義長代官古子次郎,則構城墎於彼所之刻」とあり,これが郷名としての初見で,惟澄は当郷にいた北朝方の仁木義長の代官古子次郎を攻め落とし,当郷に城郭を構えたという。なお康永4年正月11日の弾正忠某・左衛門尉某連署奉書(満願寺文書/県史料中世1)には「肥後国阿蘇庄小国宮法花供僧職事」とあり,祈祷の料足として民部律師に宛行っている。正平7年2月吉日の阿蘇社上葺等次第(阿蘇文書/大日古13‐1)によれば,「二宮之上葺之分」の裏の分を「小国ヨリ一所 北里 上田 満願寺領」で勤仕している。なお「太平記」菊池合戦事によれば,延文4年3月,北朝方の大友氏を討つため豊後に入った菊池武光に対し,少弐頼尚は北朝方として旗を挙げたといい,「阿蘇大宮司是ニ与シテ菊池ガ迹ヲ塞ガント,小国ト云処ニ九箇所ノ城ヲ構テ,菊池ヲ一人モ打漏サジト企ケル……菊池へ引返シケルガ,阿蘇大宮司ガ構ヘタル九箇所ノ城ヲ一々ニ責落シテ通ルニ」とある(古典大糸)。正平17年11月28日の阿蘇山衆徒等料足日記写(阿蘇文書/大日古13‐2)には「一,地頭御分 当(阿蘇)庄小国内穴田四町〈毎年得分物四十石五ケ年御寄進之〉」と見え,同18年閏正月25日の阿蘇社造営料木納帳(同前/大日古13‐1)には「一,おくにのふん はしら十六ほん」とあり,当地内と推定される「はいわらのふん」「にしのさと」「ミやのはる・きたかわちよりあい」「きたのさとの分」「にしのさと・きたのさと・同所御れう所」「きたのさと御れう所」「ひらせの分」「きたのさとの御れう所」「かみたの分」「むろハらの入道」「おくにのそうの〈よりあひ〉」などにも,貫・梁などが課せられたことがわかる。永和元年と推定される年未詳6月7日付の今川了俊書状写(同前/大日古13‐2)には「宮御参籠阿蘇社事,無心元候之処,小国ニ御成候之由聞候,目出候」とあり,懐良親王が阿蘇社から当地に移ったことが知られる。下って応永11年11月3日の阿蘇社領宮地居取田并郷々御米田算用状(同前/大日古13‐1)には,除田のうちに「二反二丈 小国沙汰給」とあり,当地の沙汰人がいたことが知られる。戦国期には,文明4年11月26日の阿蘇山本堂造営棟別料足請取日記写(同前/大日古13‐2)に「小国之御使,鏡一坊・久木野殿,彼両人より請取申候料足三十三貫八百六十文」と見える。同16年5月9日の阿蘇惟忠判物(矢津田文書/県史料中世4)によれば,「小国之内炭切居屋敷之事」を矢津田因幡守に安堵している。同年8月28日の阿蘇十二社同霜宮最花米注文(阿蘇文書/大日古13‐1)には「二御宮之分小国之分同霜御宮同前」とあり,牛房草・野々見・馬場・ちところ・あらせ・鬼山・よこ瀬・三日市さつしやう所の8か所が記され,続いて「かふりかた」として立藤・上井手の口・下井手の口・杉田・鳥越・轟木・松の木・出羽その・坂の下・和田・瓜上・陣など78か所,「あき原の分」として,しろうつ・田のくち・おしもなど10か所,「北里之分」として,さかのした・うちこし・あかりなど15か所,「同北里下宮ニ御寄進方之分」として,とこう・おはり・田中など21か所,「しつりの分」として,うちかわの・てらおの・おミなひらなど19か所,「ゑこうの分」として,かう野・へつ所・としなかなど7か所,「上田之分」として,にせ・しらたけ・よし本など10か所,「はいハらの分」として女子夫・鬼ふち・長迫など16か所が記されている。前記元徳2年の料木注文写などと比較すると,鎌倉期と戦国期では社役負担のための地域把握に変動がみられる。本来当地は東西に分けられ,東側は北から南に,西里・北里・志津里と並び,南端の満願寺を中心とする地域も「菅原里」と呼ばれたといい,里の呼称が残る。一方西側は冠形郷としてまとめられ,その下に里の呼称は残らない。しかし,やがて宮原・灰原・平瀬・上田・江古尾などの新村が台頭し,社役負担の対象となっていった。延徳3年の年紀のある神前山正光寺の五輪塔銘(菊池市史)には「小国住下城幡磨守惟秀,為現世安穏・後生善根」とある。永正9年正月11日の阿蘇惟豊宛行状(矢津田文書/県史料中世4)では「鬼山三段・小国西里之内垂水一町・湯本七段」の2町を矢津田左京亮に,同年月日の阿蘇惟豊宛行状(室原文書/県史料中世1)では「小国中原之内坂下二町二段」を室原越前守に,同14年5月2日の阿蘇惟豊宛行状(北里文書/同前)では「名字地(北里)六十町・堅田二町・室一町并為加恩上田三町・湯田三町三段」を北里次郎左衛門尉に宛行い,「小国役職」も安堵している。また天文13年卯月8日の阿蘇惟豊宛行状写(阿蘇文書/同前)では,「阿蘇郡上井手之内二町并小国之内波居原八町・同上上仁田一丁・同田原一丁廿分」などを宛行っている。なお享禄4年の年紀のある下城左弼蔵鐘銘(日本古鐘銘集成)には「肥後国阿蘇郡小国庄高橋火宮両大明神宮」とある。天文21年9月吉日の矢部対面所造営料木切符次第写(阿蘇文書/大日古13‐2)には「矢部御対面所小国仁片手被仰付切符之次第」とあり,柱・梁・肱木・垂木などの寸法・本数が書き上げられている。「八代日記」永緑3年10月2日条に「惟前御兄弟諸勢小国ニ打入仕損候而,如小代引退」とある。下って,天正8年と推定される年未詳6月4日付の大友円斎書状(志賀文書/県史料中世1)に「道雲事,小国表江可為在陣之由承候」とあり,志賀道雲の在陣が知られる。また同9年と推定される年未詳9月25日付の大友宗麟書状(問注所文書/大友史料25)では,問注所統景に対して「然者,至津江信濃守宅所,阿蘇小国之者共取懸,親信籠城之条,為加勢,一昨小国表悉令放火候条,北里下城事,質人差出,依佗言深重,召置候」と伝えている。なお「上井覚兼日記」天正13年閏8月21日条には「隈部殿被参候……御座物語ニ,小国表へ近日中隈部一手にて一行可仕之由也」とあり(古記録),隈部親泰が近日中に当地に出兵すると語ったという。また同年9月24日条では「義統当時ハ小国堺ヘ聢被居」とあり(同前),大友義統は当地で軍備を整えている。なお当郷は,江戸期には村名・手永名としては見えないが,広域称として存続した。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7450635
最終更新日:2009-03-01




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