ケータイ辞書JLogosロゴ 尾崎村(中世)


熊本県>岱明町

鎌倉期〜室町期に見える村名玉名郡大野別符のうち貞応3年5月21日の関東下文案(詫摩文書/県史料中世5)に「大野別符内尾崎村」とあるのが初見で,詫磨能秀が父大友能直から譲られた所領の1つとして記されており,幕府は当村などを能秀に安堵している次いで,詫磨能秀の袖判のある正嘉元年5月10日の大谷殿御墓寺々米用途支配状(同前)には「中尾崎卅五丁 分銭九百十文,北尾崎四丁五反 分銭百十七文」とあるまた弘長2年8月30日の詫磨能秀譲状(同前)には「同国内大野別符中尾崎名内南尾崎名」とあり,子息直秀に譲っている南北朝期の正平13年2月9日の紀政幸寄進状案(寿福寺文書/県史料中世1)には「奉寄進 肥後国大野別府高瀬長福寺護摩堂所田地事 合壱町壱段定 坪尾崎河原西」とあり,政幸相伝の地である「尾崎河原田」を長福寺護摩堂に寄進している室町期の応永8年10月日の詫磨満親本領所々注文(詫摩文書/県史料中世5)にも「同国玉名郡大野別符尾崎村〈南北〉」とあり,同じ頃と推定される年月日未詳の詫磨満親本領注文(同前)にも「同国玉名郡大野別符内尾崎村〈南北〉・狩塚村」とあり,当村は鎌倉期以来,詫磨氏代々の本領の1つとして相伝されてきたことが知られ,後者には渋川満頼の花押が文書の裏に書かれており,九州探題渋川満頼によって安堵されていたことが知られる応永13年6月1日の詫磨満親譲状(同前)にも「大のゝへつふりやうおさきの村内,かりつか入道のあと,たゝししやていらニわけゆつる所々これをのそく」とあり,当村などを惣領親家に譲っているまた同14年7月日の神倉荘・鹿子木東荘等名々注文(同前)にも「一,同国玉名郡内 大野別符尾崎村〈南北〉」とある戦国期の弘治3年3月吉日の紀宗善大野家由緒書上(清源寺文書/県史料中世1)には,鎌倉初期の建久4年,紀国隆が大野別符に下向し,男子3人には所領を分割譲与し,女子5人については「入婿ニテ中尾・山田・岩崎・尾崎・河崎,是五人ハ我々幕紋也」とあり,当地の領主を婿にしたことを記しているが,その信憑性については検討の余地がある江戸期の野口村の小村に尾崎,中野口村の小村に北尾崎があり,現在の岱明【たいめい】町野口の字尾崎・北尾崎に比定される
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7450664
最終更新日:2009-03-01




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