ケータイ辞書JLogosロゴ 小野村(中世)


熊本県>小川町

 戦国期に見える村名。益城【ましき】郡のうち。文亀元年7月7日の城重岑寄進状写(阿蘇文書/大日古13‐1)に「仍当国益城郡小野村之内重岑当知行十四町八段,謹奉寄進者也」とあり,当村内の地を阿蘇山万福院に寄進している。なお,これより先の明応10年7月5日の菊池武運(能運)宛行状(志岐文書/県史料中世4)によれば,「小野・天草両所」を天草一揆衆に宛行っており,当村は戦略上・交通上の要地として,菊池・阿蘇・名和・相良など諸氏の争奪・競望の対象となっていた。下って永正7年と推定される9月25日付の朽綱親満外二名連署状(相良家文書/大日古5-1)に「多年被申談候小野・豊福之事,落着候間」とあり,当地をめぐる争いが一応落着し,相良氏の勢力下に入った。しかし,「八代日記」同13年9月1日条に「伯州顕忠小野・守山ニ弓箭の手形」とあり,当地をめぐり相良氏と宇土【うと】の名和氏との争いが起きている。天文5年5月28日,相良氏は「小野村」などの「領中康寧」を祈願している(人吉願成寺蔵阿弥陀如来像銘/熊本県史蹟名勝天然記念物調査報告)。「八代日記」天文10年8月25日条に「八代人数小野まで立候」,同年同月27日条に「八代人数小野まて被出候」,翌11年正月17日条に「小河・守山・小野前後ニ八代人数皆同打出候」,同年9月3日条に「是ハ八代ヨリはかりことニよつて八代人数小野・守山ニ打出」とあるように,当地は宇土の名和氏に対する相良氏の前線となっていた。「八代日記」同12年4月26日条に「宇土ヨリ小野・守山破候」,翌13年4月6日条には「宇土ヨリ小野知行仕候」と見え,当地は名和氏の勢力下に入っていたが,翌14年4月25日,当地は相良氏に返還された(八代日記)。同19年11月5日の阿蘇惟豊証状写(阿蘇文書/大日古13‐3)によれば,惟豊は阿蘇山万福院俊海の忠節を賞し,「小野之内袋丸竹内之事」を安堵し,「小野・守山」両村は代々の神領であるとして,還付された時には新たに寄進する旨を伝えている。しかし,その後も当地をめぐる争いは続いたらしく,「八代日記」永禄2年7月18日条に「亥刻ニ豊福ヨリ小野ニ苅田仕候」,同3年3月14日条には「小野・豊福和談之儀ニ守山之地下人三人豊福ニ行候而申合」とある。下って,「上井覚兼日記」天正11年10月6日条によると,堅志田攻撃のため北上した島津軍は,当地に着いたあと,「豊福・小野・山・小川・高津賀」などの所々に分宿している(古記録)。また,同書同13年閏8月10日条によれば,同年同月,隈庄城攻撃の際にも「小野・森山・高津賀・豊福」などに分宿している(同前)。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7450715
最終更新日:2009-03-01




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