ケータイ辞書JLogosロゴ 小野田郷(中世)


熊本県>阿蘇町

 南北朝期に見える郷名。阿蘇郡北郷のうち。建武3年3月11日の阿蘇社領郷村注文写(阿蘇文書/大日古13‐1)に,渋河兵庫助沙汰分の北郷の1つとして「一所十町 小野田〈下山田 北薗 河島方 上井手〉郷」とあるのが初見で,当郷は下山田・北薗・河島方・上井手を含んでいたことが知られ,元徳2年2月23日の阿蘇社造営料木注文写(同前)には「小野田・山田・上井手〈三ケ村分〉」と見えることから,鎌倉期には村であった諸地域を,建武3年に小野田郷として成立させたと考えられる。正平7年2月吉日の阿蘇社上葺等次第(同前)では,湯浦など11か所とともに「北四宮面之分」を勤仕しているが,ここでは上井手・下山田などと対等に記され,当地には「河島方」との注記がある。同11年10月8日の肥後阿蘇荘上竹原四家分検見注文(同前)や至徳元年4月12日の肥後阿蘇社領内上竹原郷坪付注文(同前)には,小野田分や小野田の新開田の記載があり,当郷は上竹原郷と密接な関係があったと推測される。当郷は郷としての成立が遅いためか,至徳2年4月12日の阿蘇社領郷々注文(同前)の段階でも「おのた・やまた・上井手 一けんふん内」という形で記載されており,そのうち「小野田」3町3反は,1町が権大宮司知行,2町3反は十祝の知行となっている。また応永9年卯月日の阿蘇社造営料木郷村支配注文案(同前)においても,「おのた・やまた・かミゐてのかう」として材木を18支勤仕しており,当郷は郷としてのまとまりが弱かったと考えられる。同11年11月3日の阿蘇社領宮地居取田并郷々御米田算用状(同前)には「小野田」とあり,田数8反,うち定田4反,除田は山田寺免と不作が各々2反であった。文明16年8月28日の阿蘇十二社同霜宮最花米注文(同前)によれば,「十御宮之分霜御宮同前」の1つに「一所おのた百文」と見える。また室町期と推定される年月日未詳の阿蘇社年中神事次第写(同前/大日古13‐2)では,朝の勤御祭の時の酒殿の戸口の役を割り当てられているが,その詳細は不明。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7450727
最終更新日:2009-03-01




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