ケータイ辞書JLogosロゴ 鏡村(近世)


熊本県>鏡町

 江戸期〜明治22年の村名。八代郡のうち。熊本藩領。村高は,「寛永郷帳」1,044石余,「正保郷帳」も同高でうち田897石余・畠147石余,「天保郷帳」1,145石余。「旧高旧領」735石余。「肥後国誌」では野津手永に属し,高714石,「里俗中鏡村ト云」とあり,小村に樋ノ口村・移島村(現字福島)がある。また,同書は,当村のうちとして鏡町を別記し,その高157石余で,御高札場と,八代郡代支配で下番2人の置かれた鏡町津口下番所と記される。ほかに同書は当村のうちとする上鏡村も別記している。江戸末期までに上鏡村,明治初年に鏡町を分村。当村は鏡が池を中心に発展し,元禄年間には上鏡村・鏡村・鏡町の各々の地名も生じたと考えられ,鏡町は町鏡村とも称した(肥後藩切支丹の系統)。地内北部の氷川寄り,元禄年間干拓の旧堤防(現在道路)沿いには字豊野・豊原・豊繁などの瑞祥地名がある。鏡入江(鏡川)の上流に江戸末期に架橋された鑑内橋は,鏡町と内田村を結ぶ当地現存唯一の眼鏡橋。伊能忠敬らは八代の海辺測量ののち,文化7年11月18日から同月20日まで鏡町の緒方・浜田両家に分宿,同月21日津口を出船,宇土【うと】半島郡浦【こおのうら】に着いている(鹿子木維亮測量御用諸日記/鏡町史)。鏡入江の右岸に藩主細川家の米倉があることにちなみ付近一帯を御倉(御蔵)と称する。文政4年八代海に七百町新地を築造したため鏡入江右岸の芝口村,左岸の宝出村とが地続きとなり,米倉は当地から離れて海岸に移った。その結果,商業地区である町場と漁業者の住む内田村とが水上交通の道を閉ざされ打撃を受けた。野津手永惣庄屋犬塚安太は鏡入江開削を藩に願い出,文政13年に開通させると,町場や内田地区の奥まで舟運が開け,葦北郡・天草郡との交易が進み,一方従前の位置に再建された米倉には郡浦・松山・河江の3手永の米の収納もでき,販売上の利便も増した。鏡入江は旧暦28日から翌月1日2日までと14日から17日までは78端帆の船までが村際まで出入りでき,4日から13日までと17日から25日までは45端帆までの船が出入りできた。ただし冬期は漁船も出入りしなかったという(八代市立図書館蔵肥後古地図)。熊本県,八代県,白川県を経て,明治9年熊本県に所属。鏡小学校所蔵の「解散記念」によれば,同20年字清水に尋常鏡小学校を創立。同年八代町に高等小学校が設立されると当地に鏡が池支校を設置,生徒数114。さらに同年同支校は八代北部高等小学校と改称された。同22年鏡町の大字となる。
解説文を自分にメール
メアド:Milana@docomo.ne.jp

(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7450776
最終更新日:2009-03-01




ケータイ辞書 JLogosトップ