ケータイ辞書JLogosロゴ 片俣荘(中世)


熊本県>大津町

 鎌倉期に見える荘園名。合志【こうし】郡のうち。建長2年6月3日の信全所領注進状案(筑前太宰府天満宮文書/鎌遺7199)に「一,肥後国富納・片俣御灯油納所」と地名で見え,当地は信全の所領で,太宰府天満宮の灯油納所であった。弘安5年4月17日の信全所職等譲状案(同前/鎌遺14612)によれば,甥の信朝を養子として,先祖相伝の所領である「一,当宮御灯油納所〈富納・片俣〉在肥後国□□□」などを譲っている。荘園名の初見は,正和2年9月16日の鎮西下知状(同前/天満宮史料9)に「天満宮安楽寺少別当信朝与大友左近大夫将監貞宗代寂念相論肥後国富納・片俣両庄事」とあり,当荘および富納荘をめぐって相論があった。同下知状によれば,信朝は,両荘は一円神領であったが,大友貞宗が押領しているので,興行の法に任せて糾返するよう訴え,これに対して貞宗の代官寂念は,両荘は大友能直以来貞宗まで5代にわたって知行し,御公事を勤仕し,灯油以下の神役の未進もないと主張したが,鎮西探題北条政顕は両荘を社家に返付するよう裁許を下している。しかし,これはなかなか実行されなかったとみられ,嘉暦3年12月20日の鎮西御教書(同前/天満宮史料10)では,鎮西探題北条英時が菊池武時に対して,大和大郎とともに前記両荘を信朝に沙汰付けするように命じている。南北朝期の観応3年2月日に書写の奥書を有する年月日未詳の安楽寺領注進目録(同前/天満宮史料11)には「一,肥後国……片俣領〈同之(凶徒押領之)〉」とあり,南朝方によって押領されている。
解説文を自分にメール
メアド:Milana@docomo.ne.jp

(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7450845
最終更新日:2009-03-01




ケータイ辞書 JLogosトップ