ケータイ辞書JLogosロゴ 上永野村(近世)


熊本県>菊鹿町

 江戸期〜明治22年の村名。山鹿郡のうち。熊本藩領。村高は,慶長9年の検地帳(県立図書館蔵文書)で353石余,「寛永郷帳」353石余,「正保郷帳」も同高でうち田249石余・畠104石余,「天保郷帳」357石余,「旧高旧領」513石余。「肥後国誌」によれば中村手永に属し,高508石余,小村は疋田村・犬丸村・横尾村・小路村・原口村・高地村など,また宝暦13年の田畑下名寄御帳(同前)によれば,田畑反別畝数61町6反余で高は513石余,耕地などは赤迫・前田・疋田平・津留・西町・造音寺・椎木迫・犬丸・ふる古閑など19の小村に分かれていた。安政年間には米・麦・粟のほか蕎麦・唐芋・大豆・小豆・麻などを産し,うち芋は山野を開墾して栽培,大根・ナスは菜園程度で,精農中には肥料に焼酎糟を使う者もいた(中村手永稼穡調書/肥後藩の農業構造)。寺院は,天正元年開基という浄土真宗本願寺派光厳寺,慶長17年開基という同宗同派光敬寺,曹洞宗清潭寺。神社は天神社2など。熊本県,白川県を経て,明治9年熊本県に所属。「郡村誌」によれば,田49町4反余・畑55町6反余,戸数112・人数497,牛4・馬72,水車1,物産は穀類のほか甘藷・蘿蔔・楮皮・杉皮・薪など,民業は農業85戸・杣職13戸・大工職3戸・水車職1戸。幕末の安政3年〜慶応3年に島元英の寺子屋があった。明治8年に上永野小学校が創設された。同20年尋常下内田小学校の分校となる(鹿本郡誌)。同22年の田畑105町3反余・宅地2町7反余,戸数118・人口538(県公文類纂/県立図書館蔵文書)。同年六郷村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7450995
最終更新日:2009-03-01




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