ケータイ辞書JLogosロゴ 北小河郷(中世)


熊本県>小川町

 室町期に見える郷名。八代郡八代北郷のうち。地名としては鎌倉期から見え,建久6年3月日の甲佐社領立券解案(阿蘇文書/大日古13‐1)に「八代北郷……北小河 四至〈東限南小河堺 南限八代庄并小河堺 西限頭無 北限守山庄堺〉」とあるのが初見で,建久5年閏8月15日の宣旨などによって甲佐社の不輸領となった。西は八代海に臨む砂川の河口近くにあり,そのほかは各荘郷に囲まれている。下って建長元年と推定される9月12日付の法橋覚縁挙状(同前)によれば,「甲佐社領北小河□(并)砥用小北両郷地頭□(御)代官」が大山寺留守神人の狼藉を訴えていたことが知られる。建長3年9月23日の甲佐社領実検帳写(同前)によれば,田数40町1反2丈中で,うち見作田38町7反2丈・不作田1町2丈中・河成3反3丈であった。分米高は122石6斗8升,准田30町6反3丈中のうち除田として若宮免・地頭給・修理田などが見える。鎌倉末期元亨元年3月3日の阿蘇社進納物注文写(阿蘇文書/大日古13‐2)に「一,ふゆかんぬし御まつり」の分として「一所きたおかわ」とある。郷名の初見は室町期と推定される年月日未詳の甲佐社神田注文(同前/大日古13‐1)で,一祝分として「田地壱町 大宮修理田 北小河郷在之……米一石一斗〈北小河郷〉」とある。応永32年4月15日の肥後国海東郷甲佐社免田社役次第(同前)には「甲佐社免田北小河分南小河分勤行社役次第」とあり,南北合わせて24町6反の甲佐社供僧免田が書き上げられている。公田数は,永享6年10月16日の日置乗幸山次実高連署起請文(同前)によれば63町,「小川年代記」(小川夢物語/熊本史学35・36・37)所載の文安5年10月25日の年紀のある北小川地見では67町とする。前者には「北小河大明神御まつり米十石三斗五升」が見え,後者によれば,田中・六郎・早蔵・甘木・孫兵衛・亀丸・慈眼寺・乙丸・円教・納・溝口・烏帽田など20の名で構成されていたという。戦国期永正3年10月13日の菊池政朝書状(相良家文書/大日古5-1)によれば,相良長毎に助力を求め,当地などを譲ることを約している。「八代日記」天文23年2月5日条には「小河両所共ニ雑説ニよって,領ハノコトク上候,右ノ雑説シツメノタメニ蓮性寺・長福寺,北小河役人ヒヘカタスケ両人江被遣候而,仰シツメラレ候」とある。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7451199
最終更新日:2009-03-01




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