ケータイ辞書JLogosロゴ 北坂梨郷(中世)


熊本県>一の宮町

 鎌倉期〜戦国期に見える郷名。阿蘇郡東郷のうち。徳治2年8月日の阿蘇社長寿丸供僧免田屋敷坪付注文(阿蘇文書/大日古13‐1)の田地注文の1つに「一所 二反〈三宮上草〉北坂梨子郷」とあるのが初見。元徳2年正月14日の阿蘇社造営料木第三箇度切符写(同前)によると,当地は料木158支,人夫50人を勤め,正慶元年11月22日の阿蘇社造営料鍛冶炭苫未進注文写(同前)では炭24駄,苫2帖を未進している。建武3年3月11日の阿蘇社領郷村注文写(同前)には,権大宮司沙汰分の東郷のうちとして「一所三十町〈今ハ二十五町〉北坂梨郷」と記される。ただし同文書は寛正3年8月12日の写であり,寛正3年段階では25町となっていた。正平7年2月吉日の阿蘇社上葺等次第(同前)によれば,当地は「二宮之上葺之分」を南坂梨など5か所とともに勤仕し,同18年閏正月25日の阿蘇社造営料木納帳(同前)では,「一,のほりのけた一し きたさかなしのかう」とある。同19年12月の阿蘇社領四面内并郷々闕所注文(同前)では蟹迫四郎入道跡の4反は小地名「ちやうせまち」にあり,「ちもとハうわくさハきたさかなしかう内」であり,同25年7月20日の阿蘇社領宮地四面内給主注文(同前)では同じく蟹迫四郎入道跡の2反は「ちやうせまち」にあり,当郷のうちであった。また同注文には,綿貫太郎左衛門入道の知行分の1つに「一所五反〈大つほ 御まいてん きたさかなしのうち〉」とある。応永9年卯月日の阿蘇社造営料木郷村支配注文案(同前)によれば,「きたさかなしのかうもとの分」として料木が24支宛て課されている。同11年11月3日の阿蘇社領宮地居取田并郷々御米田算用状(同前)には「北坂梨郷」とあり,田数12町1反のうち,定田4町1反中,不作・水損・河成が3町8反1丈中,そのほか長寿丸供僧免などの免田があった。応永16年9月晦日の阿蘇社領宮地四面内并郷々御米田田数目録帳(同前)では,7筆,合計1町2反2丈中の田地が記載され,古田または三年荒を再開発したものであり,小地名「ミつまた」「おなしつほ」「としの神のもと」「みなミ田」「かつら田」「こまきのもと」「井しり」や作人の名が知られる。文安5年8月18日の阿蘇社造営料木屋勤仕人数番定(同前)には,当地の知行人として早奈良氏が記されている。文明4年8月25日の阿蘇山本堂造営棟別料足日記写(同前/大日古13‐2)では,当地は家数300とされている。同11年12月17日の阿蘇社領宮地居取田検見馬上帳(同前/大日古13‐1)には「北坂梨郷」とあり,16筆,計8町6反2丈中の田地と作人の名が知られるが,特に作人として市原兵庫方・市原出雲方・同彦衛門方とある点が注目される。また天文6年6月18日の阿蘇社早乙女雇在所注文(同前)には「自北坂梨一人」とある。同14年10月20日阿蘇社対面所造営料木切符次第写(同前/大日古13‐2)では「北坂梨郷二十五町之分」の料木を,また同23年8月7日の阿蘇社造営料木郷々支配注文(同前)でも「北坂梨の分」として,料木を宛て課されていた。
解説文を自分にメール
メアド:Milana@docomo.ne.jp

(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7451212
最終更新日:2009-03-01




ケータイ辞書 JLogosトップ