ケータイ辞書JLogosロゴ 木山郷(中世)


熊本県>益城町

 南北朝期〜戦国期に見える郷名。託麻郡六箇荘のうち。木山荘とも見える。地名としての初見は康永3年10月19日の阿蘇惟時宛の少弐頼尚書下写(阿蘇文書/大日古13-2)で,「木山松丸城等退治」のことが見える。郷名の初見は正平2年9月20日の恵良惟澄官軍恩賞所望交名并闕所地注文案写(同前/大日古13-1)で,「一,木山太郎左衛門入道幸蓮申本領肥後国六ケ庄内木山郷地頭職事」とあり,南朝に加担した木山太郎左衛門入道幸蓮が六箇荘内木山郷地頭職を恩賞として望んでいる。また康暦元年と推定される9月6日付の今川了俊書状写(同前/大日古13-2)には「木山・合志辺の事ハ,南都ちかく候間,したいしたいニそれより御ちうさく候ハゝ,めでたかるへく候」とあり,阿蘇惟村に当地付近の籌策を託している。次いで永徳元年7月日の今川仲秋の証判のある深堀時久軍忠状(深堀文書/県史料中世5)には,「同(康暦2年6月)廿九日,同郡木山,津森両城御新(ママ)発之時,致忠節畢」とある。内乱後の応永12年6月2日の渋川満頼預ケ状写(阿蘇文書/大日古13-2)では,阿蘇惟村に対し「木山庄〈木山遠江守跡〉事,為兵粮料所」が預け置かれている。木山遠江守は,南北朝期と推定される年未詳11月12日付の菊池武朝書状写(同前)にも見える。下って文亀3年9月24日の竹崎惟夏宛,および同年同月27日の阿蘇惟長宛菊池能運書状写(同前)によれば,阿蘇惟長に対し,木山城に入部し「木山三百五十町」を領知するように勧誘したことが知られる。また文亀3年12月19日の竹崎惟夏書状(同前/大日古13-1)にも「抑就木山三百五十町之事,毎度示預候」とある。「八代日記」天文3年4月28日条には「木山の城落去,五月一日ニ開陣」とある。本文中に天文4年の年紀のある年月日未詳の鹿子木親員知行目録(鹿子木文書/県史料中世1)には,永正14年に「木山之内七十三町給恩候て天文四乙未年迄十九年領知候,乙未之年御舟木山惟豊江被遣」とある。「八代日記」天文19年閏5月14日条には「隈本ヨリ木山ニ動候,勝利候〈義武衆杜勝〉」,同19日条に「隈本ヨリ木山・津守・隈荘動候,木山ニテシル也(シ)九十(ママ)六」と見え,同年と推定される年未詳閏5月25日付の菊池義武(義宗)感状(鹿子木文書/県史料中世1)では「去十九於木山口遂合戦」について,野中主水佑の功を賞し,また同年と推定される年未詳閏5月19日付の菊池義武書状(相良家文書/大日古5-1)でも相良晴広の当地における功を賞している。また「八代日記」永禄5年4月1日条にも「木山・津守取合其聞得候」とある。弘治3年12月24日の年紀のある大楠山安養寺棟札銘(上益城郡誌)に「奉再興南閻浮提扶桑朝西海道九州肥後之国益城郡六箇荘木山之郷大楠山安養寺東光院薬師堂一宇」とあり,当郷内に延暦年間桓武天皇の勅願寺として建立されたと伝える安養寺があり,天文23年12月7日の火事で焼失し,この時阿蘇大宮司宇治惟豊が大檀那として再建したことが知られる。下って「上井覚兼日記」天正13年閏8月18日条に「出田助九郎殿,(城)一要之名代ニ参上也,木山・津守なとへ番衆被指籠候,皆打捨退也」,同28日条に「御用心ニ津守・木山ヘ諸所之衆御番とて,次第々々に被指遣候也」と見える(古記録)。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7451284
最終更新日:2009-03-01




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