ケータイ辞書JLogosロゴ 久木野(中世)


熊本県>久木野村

 鎌倉期から見える地名。阿蘇郡のうち。正治2年12月14日の宇治惟泰譲状写(阿蘇文書/大日古13‐2)に「かみくきの」「しもくきの」と見え,阿蘇郡南郷内の10か村が先祖相伝の私領田畠として新大宮司惟次に譲られており,当時は上・下に分かれていたことが知られる。以降惟次―惟義―亀熊丸(惟景)―惟国と大宮司職とともに伝えられ,代々北条氏によって安堵されている。初見は弘安10年3月23日の宇治惟景譲状写(同前)で,「上久木野」の代わりに単に「久木野」と記されている。南北朝期になると上・下の区別はなくなり,正平7年2月吉日の阿蘇社上葺等次第(阿蘇文書/大日古13‐1)には「南四宮之分」の1つに「くき野」とあり,同18年閏正月25日の阿蘇社造営料木納帳(同前)にも「一,三丈木 一本 くきのゝ分」とあり,阿蘇社に対する負担を課されていた。なお応永12年12月13日の大江政家大般若供米送文案(西巌殿寺文書/県史料中世1)に見える「くきのゝ入道」や,文安5年8月18日の阿蘇社造営木屋勤仕人数番定(阿蘇文書/大日古13‐1)に見える「久木野因幡守」は当地を名字の地とする武士と考えられる。下って長禄2年7月25日の阿蘇社(カ)造営料木諸郷村支配状(同前)や,年月日未詳の阿蘇山本堂上葺料材切符次第写(同前/大日古13‐2)にも「くきのゝ分」としての記載があり,料木を課せられていた。文明16年8月28日の阿蘇十二社同霜宮最花米注文(同前/大日古13‐1)には「久木野之分」として,田崎のはしつめ・きたなかおの・てらかわの・室町・境目・なら園・田崎・北の園が見え,現在久木野村の久石に田崎・中尾集落,河陰に室町集落と字境目があり,明治初期の下久木野村の小村に北園が見える。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7451315
最終更新日:2009-03-01




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