ケータイ辞書JLogosロゴ 草部村(中世)


熊本県>高森町

 鎌倉期に見える村名。阿蘇郡南郷のうち。正治2年12月14日の宇治惟泰譲状写(阿蘇文書/大日古13‐2)に,阿蘇郡南郷内の村々の1つとして「くさかへ」と見え,当村など南郷内の10か村が,先祖相伝の私領田畠として新大宮司惟次に譲られている。さらに承久2年9月14日には,北条義時によって,阿蘇社大宮司職とこの「草部」を含む10か村が惟次に安堵され,元仁2年3月5日には北条泰時が同様に安堵した(同前/大日古13‐1)。安貞2年9月15日には,同じく北条泰時が惟次の譲状に任せて,永野・世田村を除いた8か村と大宮司職を宇治惟義に安堵し,文暦2年8月27日には惟義の譲状に任せて,同様に宇治亀熊丸(惟景)に安堵し,寛元元年11月9日には,北条経時がこの8か村を亀熊丸に安堵している(同前)。下って弘安10年3月23日の宇治惟景譲状写(同前/大日古13‐2)によれば,柏村の代わりに南坂梨子が加えられて,弟惟国に譲られ,同年10月13日,北条為時(時定)によって安堵されている(同前/大日古13‐1)。その後,南北朝期の正平7年2月吉日の阿蘇社上葺等次第では,下宮南四宮表の上葺料材を南郷内の他の6か村とともに割り当てられており,同18年閏正月25日の阿蘇社造営料木納帳にも「なんかう(南郷)の御分」のうちとして「一,二丈五尺木 一本 三丈五尺木 一本 くさかへの分」「一,三丈木 一本 くさかへのせりくち」と見える(同前)。また年月日未詳の阿蘇山本堂上葺料材切符次第写(同前/大日古13‐2)でも「くさかへの分」として「のたる木」「のきいた」が割り当てられ,長禄2年7月25日の阿蘇社(カ)造営料木諸郷村支配状(同前/大日古13‐1)でも「草壁之分」として割り当てられている。なお年月日未詳の阿蘇社年中神事次第写(同前/大日古13‐2)によれば,元弘年間に惟時の御願により,11月20日の臨時祭が始められたが,大野・柏・草部3か所の役として,御肴の薯蕷・薢芋と流鏑馬的板を課せられている。また文明4年11月26日の阿蘇山本堂造営棟別料足請取日記写(同前)には「野尻草壁之御使,慈眼坊,高柳又八殿,彼両人より請取申候料足十一貫文」とある。同16年8月28日の阿蘇十二社同霜宮最花米注文(同前/大日古13‐1)には「草かへのふん」として,おいし・所尾野・幸子・社倉・天ケ瀬・永野原・むかふの・馬場・岩神・灰原・水湛・大切畑などの地名が見え,各々の負担が書き上げられており,最花米を徴する使者の宿泊地として芹口・永野原市が記されている。なお現在草部の小字として残る灰原については,同注文に「草かへのふん」として「一所はい原〈二百もん,まめ一斗〉」とあり,天ケ瀬集落については,同注文に同じく「一所あまかセ〈二百文,まめ一斗〉」と見える。また同注文に見える,むかふの・馬場は,現在芹口の地名・集落名として残る。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7451327
最終更新日:2009-03-01




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