ケータイ辞書JLogosロゴ 久玉(中世)


熊本県>牛深市

 戦国期に見える地名。天草郡のうち。明応10年の年紀のある年月日未詳の天草一揆談合覚書(志岐文書/県史料中世4)によれば,志岐氏の所領牟田において,天草の一揆衆が参会しているが,そのうちに「自久玉者名代広瀬膳左衛門方」とある。フロイスの「日本史」第1部81章,ルイス・デ・アルメイダ修道士が,天草の島々で布教を始めるために派遣された次第によれば,河内浦を本拠とする天草鎮尚は,永禄12年アルメイダを招いたが,鎮尚の兄弟は仏僧とともにこれに反対し,鎮尚を本渡城に追いやった。そして,「(天草の)殿は五,六か月間,大いに困窮しながら本渡の城に引きこもっていた。弟たちが自分に対して完全に優位を保っていたので,ふたたび自領に戻される希望はほとんど持てなかった。というのは,弟たちは久玉城を接収した後,激しい勢いで河内浦に突入し,たちまちいっさいを掌握してしまったからであった」と記すように,鎮尚は窮地に立たされた。このような状況のなかで,鎮尚は志岐鎮経(麟泉)に援助を依頼し,一方,久玉城に拠る兄弟たちは島津氏・相良氏の援助を受けて3,4年久玉城にとどまっていたが,やがて鎮尚は奪回したとしている。「上井覚兼日記」天正2年12月5日条には「久玉之事内略共候つる哉,天草手ニ入候」とある(古記録)。なお,これらに関係すると思われる年未詳8月7日付の志岐麟泉書状(志岐文書/県史料中世4)は,島津義久の家臣伊集院忠棟ら4名に宛てて,「久玉之事」などを述べている。また元亀4年9月日の志岐氏宛の島津氏老臣書状案(旧記雑録後編1)では,「天草久玉」の不会の儀について志岐麟泉が去年媒介の労をとったことなどが見える。天正2年頃と推定される年未詳8月7日付の志岐麟泉書状(同前)でも,「久玉之義」について述べており,天草一族の抗争に関して志岐氏が島津氏と交渉をもっていたことが知られる。「上井覚兼日記」天正3年2月26日条には薩摩国出水【いずみ】の領主島津義虎が三箇条にわたって愁訴したことが記されているが,そのうちに「久玉境廻返之条」が含まれている(古記録)。なお,攻防の舞台となった久玉城は,天草氏の支族久玉氏が,戦国期のはじめ頃に築城したものと推定され,石垣を有した中世から近世にかけての過渡的な城跡として知られる(城郭大系18)。昭和47年に発掘され,館跡・石垣・排水溝・食器類・井戸などが確認された。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7451350
最終更新日:2009-03-01




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