ケータイ辞書JLogosロゴ 隈荘(中世)


熊本県>城南町

 鎌倉期〜戦国期に見える荘園名。益城【ましき】郡のうち。隈牟田荘ともいう。鎌倉末期から南北朝末期〜室町初期にかけては,史料上隈牟田荘とするものがほとんどであるが,戦国期には隈荘とのみ見える。なお当荘は平安末期から見える岳牟田荘と荘域が重なることから,同一の荘園と推定される。岳牟田荘の初見は,安元2年2月日の八条院領目録(内閣文庫蔵山科家古文書/平遺5060)で,八条院領であった。その後嘉元4年6月12日の永嘉門院(瑞子女王)御使家知申状并昭慶門院(憙子内親王)御領目録(竹内文平氏旧蔵文書/広島県史古代中世資料編5)に京都歓喜光院領の1つとして見えており,八条院没後,後鳥羽上皇の管領下に置かれ,承久の乱で没収されたのち後高倉院に返付され,安嘉門院―亀山上皇―恒明親王―昭慶門院と伝領されたと推定される。次いで後宇多上皇に伝領されたと考えられ,文保2年9月29日,後宇多上皇は「岳牟田庄」を高野山勧学院の営作料として寄進している(高野山文書/大日古1‐1)。隈牟田荘の初見は正和2年8月25日の藤原熊夜叉丸等連署和与状案(大友家文書録/県史料中世5)で,「肥後国隈牟田庄千原村田在家等事」とあり,当荘内千原村の田畠在家についての相論をとどめて和与し,相伝に任せて「当庄惣公文職」に藤原氏をあてる旨が記されている。また同5年10月25日の沙弥道覚譲状案(詫摩文書/同前)には「一,同国くまむたの庄〈同前〉名田地廿丁四反の四分一,当知行に丁三丈,つほつほとちやうニ見へたり,但りやうけはうに,当名中分せしむるニよて,田かすけせうする物なり」とあり,当荘内の名田などを次男「たけくま丸」に譲っており,この名田は中分されていたことがわかる。なお,隈荘の初見は元応2年6月1日の後家慈妙田畠屋敷中分状案(相良家文書/大日古5‐1)で,これには下地中分された「隈庄五郎丸名」の地頭方の坪付が記されており,五郎丸名が島田里(現島田)・桝里・佐恵木里(現島田,江戸期の西木村)・生河里(現碇)などに散在しており,条里制の遺構が残る開発の古い地域であったとみられる。南北朝期になると,戦略・交通上の位置からも当荘をめぐる南北両朝勢力の争奪が繰り広げられた。建武4年と推定される年月日未詳の大友氏泰注進状案(志賀文書/県史料中世2),「隈牟田庄地頭方半分」などが入田士寂(泰親)の知行を経たのち,出羽左近将監入道に与えられたことが見える。一方,興国3年6月20日には,後村上天皇は「隈牟田庄内大友千代松丸(氏泰)跡」などを阿蘇大宮司惟時に勲功賞として宛行っている(阿蘇文書/大日料13‐1)。正平3年9月日の恵良惟澄軍忠状(同前)によれば,延元2年3月当荘に攻め入った恵良惟澄は,同年4月2日一色頼行の代官三村入道らの軍と森崎原で戦い,正平3年には当荘などを焼き払ったという。その後同9年閏10月,南朝方に参加した津奈木某は「隈牟田庄佐慧木村⊏⊐田地弐町屋敷一所」の安堵を求めている(相良家文書/大日古5‐1)。また足利直冬の九州下向で混乱する観応2年3月12日には,九州探題一色範氏が詫磨宗顕に当荘内の千原村の田地5町(千原九郎入道跡)や森崎村の田地5町(森崎孫次郎入道跡)などを勲功賞として宛行っている(詫摩文書/県史料中世5)。その2年後の文和2年12月25日には,足利尊氏が「隈牟田庄東方〈武藤豊前入道跡〉等地頭職」を,大友氏時に「宗像庄本家米之替」として宛行った(大友家文書録/同前)。また,貞治3年2月日の大友氏時当知行所領所職注進状案(同前)には「肥後国隈牟田庄預所職〈付千原・森崎〉」,永徳3年7月18日の大友親世当知行所領所職注文案(同前)には「肥後国隈牟田庄」が各々記載されている。なお,文和年間頃と推定される年月日未詳の相良定頼并一族等所領注文(相良家文書/大日古5‐1)には「一所 肥後国隈庄内有安名田地伍町〈佐伯六郎左衛門尉跡〉」とあり,室町期と推定される年月日未詳の甲佐社神田注文(阿蘇文書/大日古13‐1)にも,一祝分の1つに「田地壱町 正月一日御祭 隈牟田庄在之」とある。延文4年10月20日の志賀氏房軍忠状(志賀文書/県史料中世2)によれば,同年6月27日大友氏時が出陣した際,「隈庄并甲佐御陣所々致忠節」とある。南北朝末期の元中4年と推定される年未詳7月4日付の征西将軍宮令旨(相良家文書/大日古5-1)に「隈牟田城落居之時」,同じ頃と推定される年未詳11月25日付の菊池武朝書状(牛屎院文書/県史料中世5)にも「去月秋比凶徒陵(凌)難所所依打寄隈牟田城候」とあり,隈牟田城の存在が知られる。南北朝末期〜室町初期頃を境として「隈牟田庄」という記載は見られなくなり,戦国期には「隈庄」とのみ見えるようになる。これは,当荘の荘園としての機能が内乱期に退転したためと考えられ,「隈庄」とは荘園名というより,広域地名として呼称されたものと推定される。文亀3年10月21日の菊池能運書状(相良家文書/大日古5‐1)には「隈荘是又輙入手候」とあり,菊池能運が支配下に置いたことが知られる。下って永正3年閏11月20日の阿蘇氏家臣連署証状写(阿蘇文書/大日古13‐2)および同年同月21日の阿蘇惟長充行状写(同前)によれば,親父祭主左衛門の隈部における忠節を賞して,祭主又五郎に当荘内5町を宛行っている。「八代日記」天文3年正月26日条に「宇土ヨリ隈庄ニ手形動」,同年閏正月15日条に「宇土衆隈庄ニ動候,合戦隈庄衆勝連候,宇土衆多人数打死」とあり,当荘に宇土【うと】勢が攻め込んだが,敗れている。この年菊池義武は肥前高来に出奔するが,翌年末義武は相良氏の庇護を受けるようになる。その後3通の天文8年と推定される年未詳7月16日付の大友義鑑書状写(相良家文書/大日古5‐1)などによれば,菊池義武の残党が当荘で蜂起したため,相良氏にこれを援けない旨を要請し,また名和氏に命じて相良氏に備えさせている。しかし,同年12月24日の名和武顕起請文(同前)によれば,義武が当荘を勢力下に置いたことが知られる。下って「上井覚兼日記」にも当荘名が散見し,天正10年12月2日条,同13日条,同15日条,同20日条などから当荘は甲斐上総介の支配下にあり,同28日には甲斐上総介は隈部親泰と断絶し,島津氏に帰服しようとしていたことが知られる(古記録)。次いで同11年10月8日には宇土の名和顕孝が「隈庄口」を攻めた(同前)。同13年閏8月11日,島津氏による「隈庄」攻撃が始まり,同年同月15日島津義弘は「隈庄城」に使の僧を派遣して降参を促し,翌16日落城した(同前)。荘域は,「事蹟通考」によれば,現在の城南町北半分と富合町の一部にかけての地域で,緑川と浜戸川に囲まれた肥沃な平野の一角に位置していたと考えられる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7451388
最終更新日:2009-03-01




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