ケータイ辞書JLogosロゴ 河内浦(中世)


熊本県>河浦町

鎌倉期〜戦国期に見える浦名天草郡のうち貞永2年2月16日の天草種有譲状案(志岐文書/県史料中世4)によれば,本砥島の地頭職が嫡子播磨局に譲られているが,そのうちの「かうちのうら」は「こまわう」に譲られているこの「こまわう」は,大蔵系図(続群7下)に見える種有の子種資と推定される南北朝期の建武4年5月3日の一色道猷書下(志岐文書/県史料中世4)には「河内浦大夫三郎入道」が見えるが,これは,前記の大蔵系図に見える資種と思われ,その注記に「自祖父種覚,河内浦相伝」と見え,種資以降,当地は天草氏によって相伝されたことが知られる下って,ルイス・フロイスの「日本史」第20章(第1部81章)のルイス・デ・アルメイダ修道士が,天草の島々で布教を始めるために派遣された次第(フロイス日本史9)には,「天草の諸領域は,長さが十四里,幅は所によっては五,四里,または二里である領内に三十五の村落と集落と四つの城があり,かの殿の主な居宅は河内浦という地にあり」と見え,天草氏の居宅が置かれていたまた,「当(天草)には,その後,一つは河内浦に,他は本渡城内にと二カ所の司祭館(レジデンシア)が設立され」とあり,天草鎮尚に招かれて布教にあたったアルメイダが当地に司祭館を置いているなお,江戸期の「天草風土考」(天草郡史料1)によれば,「天草郡古城」の項に「下田古城」が見えるが,「天正十六年没落廃城と成,下田は今壱丁田村之内也,天正の頃までは河内浦といひし也」とある現在の河浦町河浦に比定される
解説文を自分にメール
メアド:Milana@docomo.ne.jp

(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7451530
最終更新日:2009-03-01




ケータイ辞書 JLogosトップ