ケータイ辞書JLogosロゴ 上津浦(中世)


熊本県>有明町

 南北朝期から見える地名。天草郡のうち。至徳元年閏9月23日の犬追物手組覚書(志岐文書/県史料中世4)には人名として「上津浦上総介」と見える。元中4年と推定される年未詳7月4日付の相良一族宛征西将軍宮令旨(相良家文書/大日古5‐1)によれば,相良一族の軍忠を賞したなかに「天草郡上津浦若狭入道城後局之時,致忠節事」が含まれており,当地が相良氏の攻撃を受けたことが知られる。人吉市観音寺蔵の文安5年3月日の年紀を有する妙楽寺鍔口刻銘(苓北町史史料編)には「肥後天草郡上津浦妙楽寺」と見える。天文5年11月22日の沙弥洞然(相良長国)長状写(相良家文書/大日古5‐1)によれば,相良為続は八代【やつしろ】の名和顕忠を文明15年古麓城(現八代市)を攻めた際,天草から「志岐・上津浦・栖本衆」がふもとに到着したとしている。この点について相良氏山門知行以下由緒書(同前)は,これより以前寛正6年に相良為続は名和顕忠から高田郷350町を譲られたが,文明8年9月2日に顕忠が高田郷を襲ったので,10月1日に為続は佐敷に下り,上津浦邦種に参会し,天草郡中の分を依頼し,八代を仕払ったとしている。明応10年7月中旬頃と推定される天草一揆談合覚書(志岐文書/県史料中世4)によれば,「愚領蒲牟田に於て御一揆中御参会時分」の談合に,上津浦氏も参集している。さらに永正2年の申次某書状写(同前)によれば,上津浦上総介に島子村が宛行われている。なお,天草上島を二分して上津浦氏と栖本氏が争いを続けた様子は「八代日記」に詳しい。同日記享禄5年6月13日条に「天草・志岐・栖本・大矢野・長島同心にて上津浦ニ動候」とあり,天草の諸氏は同心して上津浦氏を攻めたが,同年同月16日条に「八代ヨリ上津浦治種ニ合力」とあり,相良義滋は上津浦氏に援軍を派遣している。同年7月9日条に「上津浦之城つめ候」とあり,上津浦城は諸氏に詰め寄られたが,同年8月4日条によれば,治種は合力の御礼に佐敷に出向いている。その後天文12年9月19日には,上津浦千手が家督の祝いとして鷹戸某を八代に派遣し,それに対し相良長唯は同年同月21日に上津浦孫太郎に対し「右衛門太輔」の官名を与えている。天文13年2月2日条に「上津浦親類中,棚底下城」,同年同月4日条に「上津浦親類中,上津浦下城」,同年同月6日条に「種教上津浦下城」とあり,上津浦氏に内紛の生じたことが知られる。天文20年7月8日に天草・上津浦・大矢野各氏の連合軍が栖本氏を攻め,弘治2年6月1日には上津浦氏は兵を派遣して棚底のうち藤河拵を破った。さらに同年7月4日には上津浦氏は栖本【すもと】の浦々を破り,同年8月1日には天草氏・志岐氏が上津浦氏を援けて栖本氏を攻め,同年同月25日には栖本氏の本拠近くまで迫っている。その後,9月から12月にかけて抗争は続いたが,膠着状態となった。抗争は弘治3年から永禄3年まで続き,同年11月19日に棚底を上津浦氏に割譲することで講和が成立した。その後,同7年5月には相良氏の仲介で,天草氏が上津浦氏に対して小島子・下砥岐を返還することで講和が成立したが,両氏の抗争はその後も続いた。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7451531
最終更新日:2009-03-01




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